
僕は理系(もっと言うなら工学系)の人間なのですが、僕は哲学が好きです。それに三島由紀夫の『金閣寺』とか、アルベール・カミュの『異邦人』みたいな文学作品を読むことも好きです(以前に、伊藤計劃の『ハーモニー』について書いたことがありました)。
ただ、僕が「哲学や文学作品が好きだ」と言うと、中には奇妙に感じる方もいらっしゃると思います。
「文学作品が好き」という点に関しては、「ゴルフを趣味とする人もいれば、電車の時刻表を読むのが好きな人もいるみたいに、あんたは文学作品を読むのが好きなんだな」というような理解をされる方が大半だと思います(それでも「理系の人間はあまり文学作品を好きなイメージが無かったから意外だ」と感じる人は多いような気がしますが)。
哲学については、文学よりも奇妙に感じると思います。
というのも、哲学については、世間的には次のような認識があるような気がするからです。それは「哲学は主観的なことばかりを言っていて、正しいことを言えていないし、だから役にも立たないものだ」というものです。
人によって微妙な差はあるでしょうが、一度はそのようなイメージを持ったこともあるのではないでしょうか?
そして理系については世間一般には「(どのような形態でかは分からないものの、何かしらの形で)役に立つもの」という認識があると思います。
そのため、「客観的で確実で、役に立つことを大原則としている人間(理系・工学系)が、主観的で曖昧で、特に役に立たないもの(哲学・文学)を好きというのはどういうことだ?」と思う方もいらっしゃると思うのです。
そこで今回は、工学系の僕が哲学・文学を好きとはどういうことかをテーマに、随筆を書いてみます。今回は特に、より「奇妙だ」と思われるであろう哲学に焦点を絞って話を進めていきます。
哲学は恣意的で曖昧?
まず、僕の最終的な主張(この”節”ではなく、この”記事”の最終的な主張です)は「哲学は主観的であるからこそ、有用であると思う」というものです。
ですが、これだけを聞いたら、「いやいや、主観的だったら確実ではないということだろう?だったら、現実に応用できないということになって、有用でないということじゃないか」と思われる方も少なくないと思います。
ですから、ここからは「そうだけど、そうではないんだ」ということを、順を追って話していきます。
まず、哲学に対して、冒頭で(僕が思う)世間的な理解(あるいは、イメージ)として挙げたことを再度確認しておきます。それは「哲学は主観的で、確実なことを言えていないから役に立たない」というものでした。
※1. これは僕が(勝手に、何の根拠もなく)思っている「世間はこう思っているだろう」というイメージでしかありません。ですから当然ながら、そのようなイメージを持っていない方も多いと思います。ですが、ここでは「世間なるものが存在して、哲学に対する世間的な理解なるものが存在する」ということ、「哲学に対する世間的な理解とは、そのようなものである」ということを前提とすることにします。
※1続. もしもこの前提を受け入れにくい場合は、「『哲学は主観的で確実なことなど言えていないから役に立たない』という考え方に、『世間的な哲学理解』という名前を付けたのだ」とお考えください(名前の適切さはともかくとして)。
ここでは、その世間的な哲学理解をもう少し考えてみます。その考察のために、「哲学」という単語が使われている他の単語を考えてみます。例えば「人生哲学」というものがあります。「人生哲学」の特徴から、世間的な哲学理解をもう少し掘り下げて考えてみます。
例えば、芸術家として知られる岡本太郎は「私は、人生の岐路に立った時、いつも困難なほうの道を選んできた。」という言葉を残したそうです(真偽のほどは分かりませんが)。この言葉も人生哲学の一つでしょう。
もしかしたら、岡本太郎はそのような人生哲学を持ち続けたからこそ、人生哲学を残せるほどに偉大な人になれたのかもしれません。もしそうなら、人生哲学は有用なものだということになるでしょう。
ですが、岡本太郎の人生哲学がまったく別なものであっても、人生哲学を残せるほどの人になっていた可能性だってあったはずです。
その意味では、「岡本太郎の人生哲学がその通りである必然性は無かった」ということになります。そして、岡本太郎以外の人がその人生哲学を信じて行動したからといって、必ずしも偉大な人になれるとは限らないでしょう。
なので、この事例を(強引に)一般化すると、「人生哲学は、提唱した人(ここでは岡本太郎)には役に立つものかもしれないが、その提唱者以外の人にとっては必ずしも役に立つものではない」と言えるでしょう。
ここから、人生哲学の一つの側面が見えてきます。
それは、「(必ずそうでなければならないという)必然性も無ければ、(誰にでも役に立つという)一般性も無い」というものです。
そのような特徴を持ったものを「人生哲学」というように、「哲学」というキーワードを使って呼んでいる以上、「哲学」にも、「人生哲学」とどこかしら似通った部分があるように感じられるのだと思います。
「人生哲学」も「哲学」も(あまり日常的に使う単語ではありませんが、)現代の日本で使われている単語です。ですが、その2つの単語の認識には少し違いがあるように感じます。
「人生哲学」と聞けば「あぁ、どう生きるべきかを説いているんだろうな」とイメージできる人が多いでしょうが、単に「哲学」とだけ聞いても、特にイメージが湧かないと思います。強いて言うなら、「高校で哲学者の名前を暗記させられたな」くらいではないでしょうか。
「私はどう生きるべきか」は、その問いに答えるのは難しいでしょうが、問い自体は分かりやすいです。そして、特に現代の日本(他の先進国でもそうかもしれませんが)では、極めて重要な問いとなっているように感じます。
幸か不幸か、現代日本では技術の進歩によって、昔だったら恐れられていた一般的な病気は、ほとんど治るようになってしまいました。そのため、現代日本に住むほとんどの人にとって、生きることそのものは、目的とはならなくなったように感じられます。
そのような現代日本では、「私はどう生きるべきか」という課題は、生きることそのものが目的であった時代と比べて、重要な課題として認識されているような気がします。
そのような明快さと重要性から、人生哲学と哲学とを比べたとき、最初に興味を持ったのが哲学よりも人生哲学である人の方が多くても不思議ではありません。
ですが先ほど確認しましたが、人生哲学には「必ずしも必然性が無ければ、一般性も無い」という性質がありました。初めに興味を持った人生哲学に必然性と一般性を見出せないために、「哲学も同じように、必然性も無ければ一般性も無いものなのだろう」と推し量ることになるのは、とても自然なことだと思います。
そのような流れが自然であるなら、「哲学も必然性も無ければ、一般性も無い(誰かが勝手に言っている根拠なき思弁に過ぎない)。だから役に立たない(誰か特定の人にとっては役に立つのかもしれないが)。」という考えが世間的な印象となるのも、また自然なことだと言えるでしょう。
ですが僕は、「人生哲学」と「哲学」は、似て非なるものだと思います。その理由を次の節で説明します。
哲学ってなんだ?
前の節では、(あくまでも僕の視点からという前提付きではありますが、)人生哲学を定式化しました。その人生哲学から類推して哲学を推し量ることになりそうだから、世間は哲学に対して、「主観的で、確実なことを言えていないから役に立たないもの」という考えを持ちそうだという話でした。
さて、では次に哲学を考えていきたいのですが、そもそも世間的な哲学理解には、いくつかの概念が含まれていますので、その概念を次のように取り出してみます。
- 哲学は主観的である
- 哲学は確実なことを言えていない
- 哲学は役に立たない
- 主観的だと、確実なことを言えていない(という論理)
- 確実なことを言えないと、その学問は役に立たない(という論理)
- 哲学であれ何であれ、学問は役に立つべきである。あるいは、役に立つものこそが学問である(というイデオロギー)
- 学問の重要性は、どの程度役に立つかによってのみ測られる(というイデオロギー)
上記7つの概念は、1から3は哲学そのものについて、4と5はここで考えている命題を成り立たせている論理について、最後の6と7は命題を成り立たせるためのイデオロギーや思想、価値観と呼ぶべきようなものについての概念です。
これら7つの内、イデオロギーを除いた上5つについて考えていきます。しかし、(「人生」のような枕詞の付かない純粋な)「哲学」とはどのようなものかを理解しておかなければ、そもそも上記1-5を考えられないでしょう。
そこで、この節では「哲学」を定式化していきます。そのためには、デカルトの有名な言葉「我思う、故に我あり(コギト・エルゴ・スム)」を例として考えるのが、一番分かりやすいと思います。
「我思う、故に我あり」は主観的か
もう少し現代の日本語らしくしてみると、「私が思うから、私はあるんだ」くらいになるでしょう。これだけを聞くと、とても主観的な話に思えます。「私はなぜあると(確実に)言えるのか?それは、私がそう感じているからだ」という主張にも思えるからです。
もしその通りであれば、これは必然性も無ければ、一般性も無いような言葉となるでしょう。なぜなら、私が存在しないと感じる人がいたら、私は無いと言えることになるからです。そして、「私が存在しない」と感じる人も存在し得る以上、「私が存在する」だけを根拠とする(「私が存在しない」を根拠としない)必然性はありませんし、「私が思うから、私はある」という命題に一般性はありません。
ですが、デカルトの主張はそうではありません。そもそも、デカルトは当時の学問全般に対して「各々が好きなことを言っているだけで、確実なことなんて言えていない」と感じていました。
デカルトはその理由を、必ずしも確実とは言えないものを起点に考察を始めているからだと考えました(実際にはもう少し違っていますが、ニュアンスとしてはこのような感じです。詳しくは『方法序説』をお読みください)。
そこから逆算して、「では、確実なものから考察を始めれば、(必ずしも必然性や一般性を保証できないものの、)ある程度は一般性を持った議論も可能なのではないか」と思ったデカルトは、「ではその確実なものとはどのようなもので、どうすれば見つけられるだろうか」と考察を進めました。
その考察手法として「方法的懐疑」という方法を考案しました。これは、どんなものも存在を疑っていくという考察様式です。例えば「目の前にあるこのコップは、もしかしたら錯覚でそこにあるように見えているだけかもしれない」、「この現実はもしかしたら夢かもしれない」といったようにです。
今なら、人間が電気信号で動いていることが分かっていますから、「もしかしたら自分にはすでに身体なんてなくて、本当は水槽で培養されている脳かもしれない。その脳に科学者が電極を刺して、色々と反応を調べているのが、自分の本当の姿なのかもしれない」と、SFのような疑い方もできますね。
兎にも角にも、そうしてすべてを疑っていった結果、デカルトはあることに気づきます。それは、「何かしら疑っている主体が無ければならない」ということです。
疑えてしまう以上、本当は体なんて無いのかもしれませんし、目に見えている景色も(原理的には)人為的に作り出されたものかもしれません。ですが、それらを認識している何かが存在していなくては、そもそも「何かを疑う」という現象自体があり得ません。
もう少し言い換えれば、「体は無いかもしれない。それに、自分は(自分が認識しているような仕方では)存在しないかもしれない。でも、『体は無いかもしれない』や『自分は存在しないかもしれない』と疑っている何かが存在していないはずはない(否定の否定ですね)。もしも、その疑っている何物かが無ければ、そもそも”疑う”という行為自体が不可能だから」ということになります。
デカルトが言う通り、確実なものを見つけようとして、自分自身の存在すらも疑ってみようとしても、「疑う」という行為は、主観の存在が前提となっている以上、主観は存在するとしなければおかしいということになるでしょう。
この(主観の先行原理とでも呼びうる)「疑おうとしても、その疑おうとしている何物か、今まさに思案しているはずの何物かは存在するはずだ」という考え方を端的に表そうとして、デカルトが残した言葉が、「我思う、故に我あり」という言葉でした。
ここまでの話を理解した上で、「我思う、故に我あり」という言葉を見ると、その印象は最初とはかなり違ったものになると思います。このような考え方をすれば、誰にでも思考の追体験が可能であるという意味で、「一般性がある」ものです。
この話から、デカルトがどれだけ一般性にこだわっていたかを理解していただけると思います。また、デカルトが一般性を単に夢見ていただけでなく、実際に、ある程度は一般性を持った議論を成功させていることも理解していただけると思います。
デカルトは、「我思う」という言葉を使っていることから読み取れる通り、主観的な議論をしていると言えるでしょう。ですがそれは、「『綺麗な人』や『熱い』、『たくさんのボールがある』と言っても、人によってその解釈が違うよね」というような、曖昧な議論をしているわけではないと理解していただけるでしょう。
この点は、先ほどの人生哲学と対比してみるとよく分かると思います。
哲学と人生哲学
例えば、岡本太郎の「私は、人生の岐路に立った時、いつも困難なほうの道を選んできた。」という言葉は、僕も直感的には大事なことのように感じますし、感銘を受けもします。ですが、少し考え直してみると、よく分からなくなってきます。
まず「人生の岐路に立った時」の範囲(もっと言えば「人生の岐路」の定義)が曖昧です。考えようによっては、スーパーで左のキャベツを買うか、右のキャベツを買うかといった小さな選択ですら、「人生の岐路」と言えなくもありません。
そして、「困難な方の道を選んで」は前提として、「人生の岐路に立っていると認識できる能力を持っていること」、「”道”なるものを複数考え付けるだけの能力を持っていること」が必要です。
さらに細かな話で言えば、「”道”の困難さを評価できる能力」、「最も困難な”道”が、最終的に最善となっている状況であること」、「そもそも困難さを(概念的に)比較できること」も必要です。
例えば「自然保護をしたい」と思っている人がいたとしましょう。その方法としては、「海洋汚染の防止」、「森林の生態系保護」、「温暖化の防止」など、さまざまなものがあるでしょう。どれも、とても困難なものですが、これらの内、特に困難なものが温暖化を食い止めることだとしましょう。
では、この人は温暖化を食い止めればよいという話になるでしょうか。おそらくそうはならないでしょう。「それらは理念であって、その人生哲学の適用事例にはならない」と反論したくなる人が多いと思います。つまり、理念の実現手段に適用すべきだと。
では仮に「海洋の保護活動をしよう」となった場合に、「各企業に働きかけて、排水を綺麗に保つようにしてもらう」、「海洋のゴミを回収する」、「絶滅寸前の海洋生物の保護活動をする」等々、また様々な手段が考えられるでしょう。これもまた、適用事例ではないような気がしますね。
「各企業に働きかけて、排水を綺麗に保つようにしてもらう」ような活動をするときに、「あの企業の人は怖いけど、それでも必要なことだから、逃げずに頑張ろう」と奮い立たせるときはどうでしょうか?この場合は、この人生哲学の適用事例だと感じる人も多いと思います。
しかし、それは本当に正しいのでしょうか?そもそも、企業規模や海洋の汚染度合いではなく、対応してくれる人の親切さで決めていることにも疑問を感じます。
ここまでの話で言いたいことは、人生哲学は成立させるための条件が多すぎて、どうとでも解釈できてしまうということです。人生哲学は状況依存性が高いとも言えるでしょう。状況依存性が高いとはつまり、状況をかなり限定しなければ、その人生哲学が有効に働かないということでもあります。それでは一般的な話とは言えないでしょう。
対して、デカルトの「我思う、故に我あり」では、デカルトが説明した通りに解釈していけば、誰にでもその思考過程を理解できますし、主張を間違いなく理解できます。その意味で状況依存性はありません。
ここまでの話をまとめると、哲学について、少なくとも次のように言えるでしょう。それは、「哲学は主観的な話も扱う。しかし、必ずしも確実なことを言えないわけではない。誰にでも思考の追体験は可能である。」ということです。
これで、上記の7つの概念の内、1. 2. 4. 5. については結論を出せることになります。
- 哲学は主観的である → その通りである場合もある
- 哲学は確実なことを言えていない → 確実なことを言えている場合もある
- 哲学は役に立たない
- 主観的だと、確実なことを言えていない(という論理) → 必ずしもそうではない
確実なことを言えないと、その学問は役に立たない(という論理)
状況依存性を低くしないと、その学問は役に立たない(という論理)→ その通りである- 哲学であれ何であれ、学問は役に立つべきである。あるいは、役に立つものこそが学問である(というイデオロギー)
- 学問の重要性は、どの程度役に立つかによってのみ測られる(というイデオロギー)
この5. については、先ほどの人生哲学の話から、状況依存性が高すぎると、結局は何が言いたいのか分からなくなってくることを確認しました。これは、「解釈次第で、どうとでも言えてしまう」ということでもあります(つまり、言った者勝ちです)。
ですから、「確実なこと」を「状況依存性をでき得る限り低くする必要がある」と考えるなら、5. はその通りだと言えるでしょう(おそらく他の意味でも、その通りだと言えるような気はしますが、特に根拠はありません)。
※「確実なこと」は学問によって違ってきて当然だと思います。学問ごとに、そもそも扱っている問題が違っている(問題の立て方が違っている)からです。問題が違っていると、その解決方法もまた違ってくるでしょう。
これで、残すところは3.です。
ここまでの話で、「我思う、故に我あり」のように、何か確実に言えることがあったとしても、「それはどう使えるのよ?」と言いたくなった人が多数だと思います。もし役に立たなければ、それは無用の長物と呼ばざるを得ないだろうと。
そこで、次の節で「哲学は果たして役に立つか?」について、僕の思う所を話していきます。
哲学は役に立つか?
先ほどの節では、「哲学」なるものを定式化しました。その結果、「哲学はたしかに主観的かもしらんが、”主観的である”というだけでは、すぐさま確実なことを言えていないということには、(必ずしも)ならんだろう」という話になりました。
そもそも科学で客観性が重要視される理由は、重要な部分で解釈の余地を残さないようにするためですから、その「大事な部分」の解釈が人によって変わらないのであれば、客観性は必要ないということでもあります(とは言え、現実に客観的でない話をするとなると、本当に解釈の余地が無いのかどうか確証できない場合も多いので、客観的でない話には、実践上の困難はあります)。
言い換えると、「哲学は確実なことを言えていない、とは言えない」と。ただし、役に立たない可能性はまだ残っています。ということで、節を変えて話を進めるわけですが、最初に「哲学は役に立つか?」に対する僕の主張を説明してしまうと勘違いされる可能性がとても高いと思ったので、僕の主張は最初には説明しません。
ですが、以降の一つ一つの話は理解していただけると思いますから、この記事を読み終わった後で、もう一度この節を読んでみると面白い発見があるかもしれません(し、無いかもしれません)。
ということで本題に入りたいのですが、その前にそもそも「役に立つ」とはどういうことでしょうか。何がどうなったら「”それ”が役に立った」と言えるのでしょうか。
「哲学は役に立つか?」という話は、「哲学」という概念を「役に立つか否か(あるいは、どの程度役に立つか)」という評価尺度で測り取ろうとする話なわけですから、その評価尺度である「役に立つ」を明らかにしておく必要があります。この事情はもっと身近な例に置き換えてみると分かりやすいと思います。
例えば、「定規」という測定器を使って「重さ」を測り取ろうとする人はいないでしょう。それは、「重さ」という評価尺度に対して「定規」という測定器が不適切であることを皆さんが理解しているからです。
そして、定規なら、物にぴったりとくっつけて測り取るのが正しい(遠くのものを測るべきでない)とか、他にも例えば電子天秤なら、水平な場所で、測りたいものだけを上に載せて、手を離した状態で測り取るのが正しいといったように、どのような測定器にも正しい使い方があります。
皆さんは、定規や電子天秤であれば、そのように正しい使い方を知っていることでしょう。
では、「役に立つ」はどうでしょうか。そのような知識を持っているでしょうか?
必ずしもそうとは言えないのではないでしょうか?
そもそも、「役に立つ」という評価尺度に対する測定器がどのようなものか、直感的には分かっていても、よく考えてみたことがない方がほとんどではないでしょうか?
もしも、「重さ」を定規で測ろうとしている人がいたら、皆さんは使う測定器を間違っていると指摘できるでしょう。水平でない場所で電子天秤を使っている人を見たら、使い方を間違っていると指摘できるでしょう。ですが、「役に立つ」という評価尺度も、その測定器も目で見ることはできません。
そのため、「役に立つ」という評価尺度を考えているときには、「重さを定規で測る」や、「水平でない場所で電子天秤を使う」に当たるミスに気づけない可能性もあります。「役に立つ」という評価尺度は目で見えないからこそ、他の評価尺度よりもよく考えて利用する必要があると思います。
そこで、ここでは「役に立つ」という評価尺度を測るための測定器(「長さ」に対する定規や、「重さ」に対する電子天秤に当たるもの)と、その測定器の正しい使い方(定規に対する「離れているものを測るのは正しくない」や、電子天秤に対する「水平でない所で測るのは正しくない」に当たるもの)を考えていきます。
「役に立つ」を適用できる条件
※しばらくは当たり前と思われることを確認しているだけなので、つまらないかもしれませんが、しばしお付き合いください。
「役に立つ」を考えるための足掛かりとして、「役に立つ」をネット上で検索してみると、「使って効果がある・有用である」という結果が出てきました。
つまり、”何か”を使って、その結果が何かしらの意味で「効果があった・有用だった」と言えるなら、”それ”は「役に立った」と言えると。逆に、”何か”を使って、「効果が無かった・有用でなかった」と思えるような結果となったら、”それ”は「役に立たなかった」と言えることになります。
あるいは、「役に立つ」でないものを「役に立たない」と定義する流儀もあるでしょう。
ところで、皆さんは完全に「効果があった・有用だった」とも言い切れなければ、完全に「効果が無かった・有用でなかった」とも言い切れない状況に遭遇したことはないでしょうか。
例えば、紙を切ろうとしたときに、カッターナイフの切れ味が悪くて、少し切りづらかったけど、切ることはできたという場面を想像してみてください。
そのカッターナイフを評価してみると、まず完全に役に立たなかった・有用でなかったとするのはおかしい感じがするでしょう。紙を切るという目標は達成できてはいるわけですから。かといって、完全に役に立った・有用だったと肯定するのも妙な気がします。
この場合は「役には立ったけど、他の(もっと切れ味の良い)カッターナイフの方が、もっと役に立った」といった感じの評価が適切な気がします。もしそうなら、僕たちは「役に立つ」を度合いで評価していることになります。
「役に立つ」以外、つまり、「役に立つ」の否定を「役に立たない」と定義するということは、「役に立つ」と「役に立たない」を、白黒はっきりと分けることになります。それは紙を切る例のような、程度問題を評価できない指標ということになってしまうので、その定義は直感に反することになります。
ですから、ここでは「役に立つ」を「長さ」のように(「血液型」のような離散値ではなく)、連続値的な評価尺度だとしておきます。平たく言うなら、グラデーション的な指標だと。
では、「役に立つ」を(言葉だけを)否定形にした「役に立たない」とはどのようなものでしょうか。こちらは例えば、紙を切りたいときに、ドーナツをもらったときのようなものでしょう。
「紙を切りたい」という目的に対して、ドーナツはそもそも目的を達成するための手段ではありません。そのため、ドーナツは「紙を切る」には「役に立たない」という評価になるでしょう。また同時に、そもそも「紙を切る」という目的に対して、ドーナツを測るのがおかしい感じもします。
このことから、「役に立つ」度合いが完全に0か、極めて0に近いものが「役に立たない」ものだとしましょう。あるいは、「役に立つ」の度合いで評価するのがそもそも間違っているようなものが、「役に立たない」だとも言えそうです。
一言で「役に立たない」と言っても、「そもそも役に立つ度合いを評価できない」と「役に立つ度合いが0である(あるいは極めて0に近い)」という2つの意味があるということですね。
また、先ほどの「役に立つ」の説明の中に、「使って」という言葉が入っていることから、「役に立つ」という評価指標は、”何か”による介入で、結果がどうなったかを調べて、その結果が”何か”の評価に影響するという性質を持っていることになります(順番が、「道具(”何か”)の使用(→結果の取得)→結果の解釈→道具(”何か”)がどの程度役に立ったかの評価」となるということです)。
ここまでの話から、「役に立つ」とは、”何か”が目的達成のための道具として、どの程度良い結果を得るのに寄与したかを評価するときに使われる指標で、「役に立つ」の測定器は、その”何か”を使って得られた過程と結果だということになります。
またこのことから、「”何か”が役に立つ」と言えるためには、その”何か”を使っている人が何かしらの目的を持っている必要があることも分かります。
ここまでで、「役に立つ」の性質と、その測定器を規定出来ました。ですが、ここまでの話は普段使っている単語を確認していただけですから、当然のことばかりだったと感じる方も多いと思います。
次に、今までの説明から、使用者が”何か”を「役に立つ」と言える(あるいは、「”それ”が役に立つ」と実感できる)ためには、少なくとも2つは前提があると気づけるでしょう。
- 使用者が「私は”それ”を使っている」という意識を持っていること
- 使用者が”それ”を使って得られる結果に注目していること
という2つです。
1つ目は、自覚無しに使っている道具的な性質を持った”何か”は、そもそも「役に立つ」かどうか判定できないだろうということです。長さと定規の例に置き換えてみると、自分が何を測ろうとしているのかが、そもそも分かっていないということです。定規はあるけど、何に定規を使おうか分かっていない状況とも言えます。そのような状況では、そもそも測定できないでしょう。
2つ目は、何らかの目的を達成するための道具として、”何か”を自覚して使っていても、その結果を理解できないと、やはり「役に立つ」かどうか分からないだろうということです。こちらも長さと定規の例で言えば、定規を持っていないという状態に当たります。定規(定規に限らず、長さを測定できる測定器)を持っていなければ、やはり長さは分からないできないでしょう。
そして2つ目の話は、「道具の使用者が道具と結果の間に因果関係を感じ取れること」が前提となっていることも分かります。
ここまでの話で、「役に立つ」について、次のようなことが言えるでしょう。
- 「役に立つ」とは、程度を表す評価指標である
- 「役に立つ」とは、目的を達成できる道具に対してのみ適用できる評価指標である(そもそも目的の達成に関係のない道具は「役に立たない」と言われる)
- 「役に立つ」は、道具の使用によって、目的の達成に、どのように、どの程度寄与したかによって測られる(「役に立つ」という評価指標は、過程と結果によって測られる)
- そもそも「役に立つ・立たない」と言えるためには、使用者が目的を持っている必要がある
- 「役に立つ」の度合いを評価できるためには、道具の使用者が「私はこの道具を使っている」と自覚している必要がある
- 「役に立つ」の度合いを評価できるためには、道具の使用者がその結果に注意している必要がある
- 道具の使用者が道具と結果の間に、因果関係を感じ取れる必要がある
まだ議論が不十分な箇所や、他にも付け加えるべき規定はいくらでもあるでしょうが、とりあえず、現時点でここまで規定できたことになります。
この「役に立つ」の規定を使えば、例えば、スマホやPCは(度合いは人や状況によって様々でしょうが、)おおよそ役に立つと言えるでしょう。
まず、「私は大阪駅への行き方を調べたい(という目的を持っている)から、スマホで調べる」といったように、目的と道具を自覚した上でスマホを利用することになるでしょうし、検索結果に注目してもいるでしょう。この時点で、どの程度役に立ったかを評価できることにはなります。
最終的に「大阪駅への行き方を知る」という目的も達成できるでしょうから、その目的を達成するのに大きく寄与したスマホやPCといった道具は、「役に立った」ということになるでしょう(少し詳しい人なら、「Webブラウザが役に立った」とか「ルータが役に立った」、「ペイジランクが役に立った」と思うかもしれませんね)。
ここまでの話は、日常的に使っている「役に立つ」を説明するには、まだまだ不十分な点もあります。ですから当然ながら、日常で使う「役に立つ」が、すべてこのように規定で説明できるとは限りません。また同時に、日常で使っている「役に立たない」が、この規定では「役に立つ」とされる可能性もあります。
ですが、日常的に使っている「役に立つ」という言葉の内、いくつかのパターンは説明できるとも思います。ですから、とりあえずこの状態で哲学という概念を「役に立つ」かどうか測ってみましょう。
すると、一般には、上記7つの規定を持った「役に立つ」で評価すると、「一般には哲学は役に立たない(そもそも哲学は役に立つ度合いを測れるものではない)」ということになると思います。
哲学を専門に研究されている方々は、目的(新しい哲学を生み出すため)を持って哲学を利用していると言えるでしょう。そして、その方々が(哲学的に何かしらの意味で、)良いと考えられる結果を得たとします。
すると、その過程と結果を測定器として、そこで使われた哲学は、(後付け的に)どの程度役に立ったかを判定できるということになります。このように、研究活動に焦点を絞れば、今はまだ測定器(過程と結果)が無かったとしても、いつか作られるかもしれないので、すべての哲学は役に立つかもしれないものになります。また、今の哲学を進歩させる上で使われている哲学は、すべて役に立っているとも言えるでしょう。
ですが、僕を含めた一般の人からすると、日常生活で何かしらの目的を達成するために「哲学を利用している」と考えている場面は、皆無だと言っていいでしょう。そのような状況では、測定器も無ければ、測定対象も無いということになります。
測定対象が不明であったり、測定器がそもそも無かったりするような状況は、「役に立つ度合いが0である(あるいは、0に限りなく近い)」と言うよりも、「そもそも(上記の規定による)役に立つという評価指標で測ろうとしているのが間違っている」と言えるでしょう。
その意味で、一般人にとっては、哲学は役に立たないものだと思います。今までの話には、議論の不十分な箇所がいくつもありましから、必ずしも「哲学は役に立たない」と言い切れるわけではありません。しかし、「役に立つ」を上記の7つで規定する場合は、哲学を専門としない人たちにとって、「哲学は役に立つ」とは言えません。
ですから、世間的な哲学理解の7つは次のようになります。
- 哲学は主観的である → その通りである場合もある
- 哲学は確実なことを言えていない → 確実なことを言えている場合もある
- 哲学は役に立たない → 非哲学者にとってはその通りである(ただし、「役に立つ」とは上記7つによって規定される)
- 主観的だと、確実なことを言えていない(という論理) → 必ずしもそうではない
確実なことを言えないと、その学問は役に立たない(という論理)
状況依存性を低くしないと、その学問は役に立たない(という論理)→ その通りである- 哲学であれ何であれ、学問は役に立つべきである。あるいは、役に立つものこそが学問である(というイデオロギー)
- 学問の重要性は、どの程度役に立つかによってのみ測られる(というイデオロギー)
さて、ここで「さんざん『役に立つ』を考察してきたのに、結論は『哲学は役に立たない』かよ!」と思う方もいらっしゃるでしょう。
たしかに、哲学はここで言う所の「役に立たない」ではありますが、少し考えてみると、ここで規定した意味で「役に立つ」と言えないものが他にもあることに気づけます。
例えば目は、日常生活では、特に意識することなく使っていると思います。そして、目的意識を持って見ているわけでもないと思います。というよりも、目的は目を使って得られた結果の方に注がれていて、「目を使っている」という意識は無いと思います。
例えば、地図を見るとか、PCでイラストを作るといった行動は、目が見えていることを前提にしているでしょうが、目を使おうと意識して使っているわけではないでしょう。このことから「役に立つ」の規定5が満たされません。
そのため、この「役に立つ」の規定を受け入れると目は(ここで規定した意味では)「役に立たない」ことになりますが、それは直感に反しているように感じられます。直感的には目は役に立つものだと言いたいところです。
そのため、ここでは哲学が役に立たないと証明されたというよりも、どちらかと言うと「役に立つ」に求めている規定が厳しすぎるとも考えられるでしょう。
そこで、僕個人としては、「役に立つ」の規定をもう少し緩めたバージョンを考えたいところです。
「役に立つ」と「有用である」
上の節で、この記事で言う「役に立つ」を規定してきました。その何が強すぎる規定の原因となっていたのかを調べるために、その規定を再掲して確認しておきます。
- 「役に立つ」とは、程度を表す評価指標である
- 「役に立つ」とは、目的を達成できる道具に対してのみ適用できる評価指標である(そもそも目的の達成に関係のない道具は「役に立たない」と言われる)
- 「役に立つ」は、道具の使用によって、目的の達成に、どのように、どの程度寄与したかによって測られる(「役に立つ」という評価指標は、過程と結果によって測られる)
- そもそも「役に立つ・立たない」と言えるためには、使用者が目的を持っている必要がある
- 「役に立つ」の度合いを評価できるためには、道具の使用者が「私はこの道具を使っている」と自覚している必要がある
- 「役に立つ」の度合いを評価できるためには、道具の使用者がその結果に注意している必要がある
- 道具の使用者が道具と結果の間に、因果関係を感じ取れる必要がある(実際に因果関係があると言えるかどうかは問わない)
改めて見てみると、この規定の内、上3つは「役に立つ」という評価指標の性質を説明していて、下4つは「役に立つ」の測定条件を説明していると言えそうです。
規定4の「使用者が目的を持っている必要がある」が測定条件だというのは、目的と結果を照らし合わせることで、役に立つ度合いを測ることになるからです。目的が「役に立つ」の基準点であるとも言えるでしょう(定規で言う所の0に当たります)。
そのように考えれば、規定4も「役に立つ」という評価指標で測る際に必要な前提であると納得していただけると思います。
この7規定の内、下4つの規定はどれも、使用者の意識的な活動が必要だと言っていると考えられます。規定4、5、6、7は、使用者の「○○したい」、「”それ(道具)”を使っている」、「結果はどうか」、「結果にどう関係しているか」という意識が必要であると、それぞれ主張している言えるでしょう。
そこで、「有用である」を、使用者の意識が必ずしも介在しないものに対して使う評価指標であるとしましょう。これは、使用者の意識が必要でないと主張することになりますから、「役に立つ」の規定を弱めたことになるでしょう。
ただし、「役に立つ」と言えるなら「有用である」と言えて、かつ、「有用である」と言えても必ずしも「役に立つ」とは言えないようなものとなっている必要があります。そうでなければ、「有用である」は「役に立つ」を弱めたものとは言えないでしょう。
※包含関係で考えると、「『役に立つ』が『有用である』に、完全に内包されている状態になっているはずだ」という主張ですね。
そう考えると、「役に立つ」の規定を参考に、「有用である」が少なくとも次のようなものであることが分かります。
- 「有用である」とは、程度を表す評価指標である
- 「有用である」とは、目的を達成できる道具に対してのみ適用できる評価指標である(そもそも目的の達成に使用不可能な道具は「有用でない」と言われる)
もしも、「有用である」が程度を表していない評価指標だったら、「有用である」の部分集合である「役に立つ」が程度を表している評価指標だとするのはおかしいように感じられます。そのことから、逆算的に、「有用である」が程度を表しているはずだと考えるのは、一つの妥当な考え方でしょう。
「役に立つ」の規定の内、4から7は、意識を前提としているので、「有用である」の規定には使えません。
規定3の、「『役に立つ』という評価指標は、結果と過程によって測られる」も、「それを使っている」という意識の不在や、目的意識の不在を「有用である」の前提に置いているため、「有用である」の規定には入れられません。
しかし、目的意識が無かったとしても、目的に対して、その目的に利用し得るものである必要はあります。意識的にであれ、無意識的にであれ、利用できないようなものは、そもそも「役に立つ」とも「有用である」とも言えないでしょう。
このことから、「有用である」と言えるためには、(どういう方法かは分かりませんが、)利用可能なものである必要がありそうです。これが「有用である」の規定2の意味です。
例えば一つ上の節で挙げた目は、基本的に「○○のため」という意識なく使われているでしょう。ですが、例えばPCでイラストを作るときには「イラストを見るため」に必要なものです。
また、自分と他の人の見え方が同じである必要もあります(目を使った結果が、他の人にも通じるくらいには一般的である必要があります)。もしも、自分と他の人とで見え方が大きく違っていたら、イラスト製作には利用できないでしょう。
このように、特に意識してはいないものの、目的達成に(少なくとも何かしらの方法で)寄与し得るものでなければ「有用である」と言えないでしょう。
また、ここから「有用である」と言えるためには、”それ”が「重要な部分で解釈の余地が無いようにしなければならない」とも言えるでしょう。この「重要な部分」は事物によって様々だと思います。
例えば、水の性質を調べているときに、その沸点は重要な部分と言えるでしょう。そのため、温度が解釈によって、人毎に変わらないようにしなければなりません。ですから、「熱くなると沸騰する」では「有用でない」ことになり、「100℃で沸騰する」なら「有用である」ことになります。
ですが、例えば天気の話などで、「空気が暖められると軽くなって、暖かい空気は上昇する」という話になると、こちらでは具体的な温度ではなく、温度差が重要です。なので、低い空気と対比して使っているのなら、「暖かい空気」という表現は「有用である」ということになります。
具体的な温度を指定して、「15℃の空気と25℃の空気を混ぜると、15℃の空気よりも25℃の空気の方が低いから、25℃の空気は上に、15℃の空気は下に、それぞれ進もうとする」と言うとどうでしょうか。もちろん文脈には依るでしょうが、大体の場面で一般的とは言えないでしょう。もしも15℃と25℃の空気を混ぜ合わせるときには使えるでしょうが、それ以外の温度になると使えないからです。
そのため、15℃と25℃の空気について議論するときには「有用である」と言えるでしょうが、一般には「有用である」とは言えないでしょう。つまり、「すべての温度に対して」という一般性が欠けています。
先ほどの、水の性質を調べるという例でも、純粋な水であれば、どこにあっても、どんな形の容器に入れられていても、100℃で沸騰するという一般性があります。
他にも、上の節で「役に立たない」とするのはおかしいという話で例に挙げた”目”もまた、ある程度は人間に共通の視覚情報を与えてくれるので、一般性があります(例えば、赤外線とか紫外線が見えないといったような)。
しかし、そのような目の性質は人間には成り立ちますが、他の生物にとっては必ずしも成り立ちません。
ですが、”目”は上の節でも確認した通り、(一般的な意味で)役に立つものだと感じるでしょう。そのため、一般性はある程度で構わない(目の場合は人間について成り立てばいい)とも言えそうです。
今見てきたように、何について一般性を持っていればいいのか、どの程度一般性を持っていればいいのかは、事物によって様々です。なので、一般性がどこにどの程度必要なのかを画定することはできません。
しかし「有用である」と言えるためには、「重要な部分で、ある程度以上の一般性を持っている必要がある(同時に、一般性はある程度まででいい)」と言えるでしょう。そこで、「有用である」の先ほどの規定にもう1つ付け加えます。
- 「有用である」とは、程度を表す評価指標である
- 「有用である」とは、目的を達成できる道具に対してのみ適用できる評価指標である(そもそも目的の達成に関係のない道具は「有用でない」と言われる)
- 重要な部分で、ある程度は一般的でなければならない(重要な部分で解釈の余地が無いようにしなければならない)
この3つで「有用である」を完全に規定できたとは思いません。ここでの3規定に反論したくなる方も多いでしょう。しかしそれでも、おおよそ「役に立つ」の規定を弱めた概念ではあると思います。
それに、上記の「役に立つ」だけでは「役に立たない」と一括りにされてしまっていた物事を、「有用である」と「有用でない」に区別できたとも思います。
この規定に依れば、目は「有用である」と言えるでしょう。そのことを確認してみます。
まず、色覚多様性による例外はあるものの、大多数の人間については同様の感覚を伝えているので、ある程度以上一般的だと言えるでしょう(目による感覚が一般的に通用する)。
次に例えば、PCで音楽を聴くときと、イラストを作るときとでは、その「有用である」の度合いが違ってもいそうです。これは、目の目的達成への寄与度合いを、白黒という二値的に評価しているのではなく、グラデーション的な程度で評価しているということでもあります。
これら2つのことから、”目”は「有用である」と言えそうです。
これで、とりあえず前節での違和感を解消した(と言えそうな)概念として「有用である」を規定できたとしましょう。
とりあえずこれで「哲学」を測ってみることにします。哲学は、果たして「有用である(あるいは、有用でない)」と言えるでしょうか。
僕の主張は、「哲学は(あくまでも、この記事で規定した意味で)有用だと思う」です。
哲学は有用だと思う
4つ前の節で、人生哲学と哲学の違いを説明しました。その中で、哲学は人生哲学とは違って、「主観的ではあるかもしれないけど、必ずしも確実なことを言えていないとは限らない」という話をしました。むしろ、「誰にでも思考を追体験可能である」という意味では、一般性もあるだろうとも説明しました。
誰にでも思考や、その意図を追体験可能であるということは、哲学書を読めば、新しい考え方や視点、感性を学べるということでもあります。これは、他者ならざる身で、他者の思考を再現できるということだと思います。
そして、再現可能であるからこそ、他者ならざる身で、他者の思考を批判できるということでもあると思います。これは、「その他者の言いたいこと、主張の意図を正確につかんでいたら」という前提が付きますが、それはあくまでも実践上の困難であって、原理上の困難ではありません。
例えば、デカルトの「我思う、故に我あり」という言葉に対して、「主観的だから間違っている」という批判は、デカルトの主張を正確に理解していないことによる間違った批判の例と言えるでしょう。
デカルトがそういう話をしていないということは、3つ上の節を読んでいただければ分かると思います。このように、主張の意図を正確につかんでいなければ、批判に意味が無くなってしまいます。
しかし例えば、「『主観があるとするだけでなく、ある経験をしたと私が感じている』ということも、(その経験が錯覚などで正しくない可能性はあるが、私がそう感じたということは)確実に言えるではないか」という批判をするのであれば、それは正しい批判と言えるでしょう(この形式の批判をしたのがフッサールですね)。
そして、こちらの批判は、確実にあると言えるものの領域を拡大したという意味で、極めて重要な批判だとも思います。
このように、ある考えを正確につかんでいれば、その理解を基に、より考えを発展させていけるというのが哲学の面白い所の一つでもあると思います(これは哲学に限らず、学問全般にそうでしょうが)。
さらに言えば、哲学はある程度以上、正確に文脈を理解することができれば、それ以上は解釈の余地が無くなる(=すべての人にとって、曖昧さが無くなる)ということでもあると思います。
しかし、人生哲学はそうではないと思います。例えば、岡本太郎の「私は、人生の岐路に立った時、いつも困難なほうの道を選んできた。」は、状況依存性が高すぎるという話をしました。ところで、人生はある点では繰り返しがあるとも言えるでしょうが、ある意味においては繰り返しは皆無だとも言えるでしょう。
例えば、2022年の12月24日という日は、宇宙が生まれてからどれだけの時間が経とうと、その一瞬しか存在し得ないわけです。そのように、ある意味で常に新しい状況が出てくる以上、状況依存性が高すぎる人生哲学は、いつまで経っても解釈の余地が無くならないということでもありそうです。
このように考えると、人生哲学と哲学との違いを、また新たな視点から理解し直せると思います。
哲学は有用だ
さて、ではそのような哲学は果たして有用かを考えるために、「有用である」の規定を再掲して確認しておきましょう。
- 「有用である」とは、程度を表す評価指標である
- 「有用である」とは、目的を達成できる道具に対してのみ適用できる評価指標である(そもそも目的の達成に関係のない道具は「有用でない」と言われる)
- 重要な部分で、ある程度は一般的でなければならない(重要な部分で解釈の余地が無いようにしなければならない)
哲学は先ほど人生哲学との違いで、一般性があるということを説明しましたから、2と3はクリアしています。
後は「哲学は規定1を満たす」ことと、「哲学によって良い効果を得られることがある」という2つを示せたら、「哲学は有用である」と言えるでしょう。
そこで、哲学にも様々な形態があるという話をしましょう。
例えば、ルソーの『社会契約論』は、「人々が暴力を使って争わずに、自由と平等を実現するための条件には、果たしてどのようなものが考えられるだろうか?」を考えたものだと言えるでしょう。
この考え方は、フランス革命に影響を与えたと言われています。
フランス革命以前は、貴族が権力を握っていて政治を取り仕切っていた状態でしたが、それ以降は、現代のような民主主義が生まれる(国によって形態は違いますが)ことになりました。
貴族というごく少数の人たちによって、法律や裁判などが支配されていた状態と、(実行上の欠陥があるとはいえ、)大勢の民衆に法律や裁判が開かれた状態とを比較すると、(現代からでは想像しかできませんが、)『社会契約論』は良い影響をもたらしたと言えるでしょう(現在の民主主義に欠陥があるからと言って、じゃあ貴族だけが支配するような専制主義が良いかと言えば、そうとは言いづらそうですし)。
これに比べて、デカルトの「我思う、故に我あり」はどうでしょうか。なんとなく、社会に影響を与えはしたのだろうけど、その影響度合いが社会契約論とは違っているようにも感じられます。
であれば、これは程度評価可能なものということにはならないでしょうか?もしも程度評価可能なのであれば、この時点で「有用である」と言えるためには、「良い効果を得られることがある」と示せれば良いことになります。
それは先ほどルソーの『社会契約論』が良い影響を与えたという話がありましたから、哲学も必ずしも「有用でない」ということにはならないだろうと納得していただけるでしょう。
このことから、僕は「哲学は(すべてがそうだとは言わないが、)有用である(正確には、有用なものもある)」と主張したいです。
そこで、この記事を通して考えてきた7つの哲学認識は、次のようになります。
- 哲学は主観的である → その通りである場合もある
- 哲学は確実なことを言えていない → 確実なことを言えている場合もある
哲学は役に立たない → 非哲学者にとってはその通りである(ただし、「役に立つ」とは上記7つによって規定される)
というより、哲学は(この記事に規定した意味で)「役に立たない」と言うのであれば、それはそもそも「役に立つ」という概念の誤用だと思う。どちらかと言えば、哲学は(この記事で規定した意味で、)「有用である」という概念で測るべきで、実際に「有用である」のではないだろうか。- 主観的だと、確実なことを言えていない(という論理) → 必ずしもそうではない
確実なことを言えないと、その学問は役に立たない(という論理)
状況依存性を低くしないと、その学問は役に立たない(という論理)→ その通りである- 哲学であれ何であれ、学問は役に立つべきである。あるいは、役に立つものこそが学問である(というイデオロギー)
- 学問の重要性は、どの程度役に立つかによってのみ測られる(というイデオロギー)
そして、哲学はデカルトの「我思う、故に我あり」にしても、ルソーの『社会契約論』にしてもそうですが、人間にとってある何物かが持つ意味を考えているような気がします。
つまり、人間にとって、ある何物かが一体どのようなものなのかを考えているような気がします。デカルトの例であれば、「我々人間にとって確実なものとは、一体どのようなものか?」を、ルソーは「我々人間にとって良い社会を運営するための条件とは、一体どのようなものか?」を、それぞれ考えているような気がします。
この「人間にとって」とは、「主観にとって」という話でもあると思います。しかし、主観的な話をしているからと言って、確実なことを言えていないとは限らないとは、この記事で何度も言及してきました。
そして、人生哲学とは違って、論理を正確に把握していれば、現行の哲学を批判することで、哲学を展開していくことも可能だという話もしました。そうであるなら哲学は、人間にとって(主観にとって)どういう意味を持っているのかを探求していく活動であり、学問だとも思います。
これらのことから、科学のような客観性がないにも関わらず、ある程度以上、解釈の余地が無い議論をしているからこそ、哲学が「有用である」と思います。
これが、最初に説明した「主観的であるからこそ有用である」という主張の意味です(まぁ、「人間にとっての意味などどうでも構わないではないか」と言われてしまえばそれまでなのですが)。
まとめ
さて、今までの記事の中で、最も長い記事になったような気がしますが、ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。この記事もようやく締めです。
まず、世間的には「哲学は主観的に言い争うばかりで、役に立たなさそうだ」という考えがありそうだという話をしました。
そのような印象は例えば「人生哲学」みたいに、「哲学」という単語が使われている他の概念からの類推によって、生まれた印象なのではないだろうかという話をしました。
そして、その人生哲学と対比する形で、主観的ではあるかもしれないけど、必ずしも曖昧なことを言っているわけではないという話をしました。その中で、「哲学は思考の追体験が可能だ」という話も出てきました。
その話で、哲学をある程度定式化出来たので、次は役に立つかどうかの判定でした。しかし、「役に立つ」という概念をよく知らないから、その測定器などを規定しました。
「役に立つ」を規定できたのはいいのですが、どうやら、それは少し厳しすぎる規定だったように感じられるのでした。そこから、「役に立つ」をより弱くした概念として「有用である」を規定しました。
この「有用である」を規定したことによって、哲学を測れるようになりました。そして、その「有用である」を使って哲学を測ってみたら、「必ずしもすべての哲学が等しく有用であると言えるかどうかは分からないものの、どうやら有用であると言えそうな哲学もありそうだ」ということになりました。
そして、ここでの「有用である」とは、「道具として利用できるくらいには一般的である」という意味も含まれていましたから、哲学は道具として利用できるという主張でもありました。
特に、人生哲学と哲学を定式化していたときに、「哲学は主観的であっても、必ずしも一般的でない話をしているわけではない」ということを確認していました(この一般性から、哲学は「有用である」ということにできたのでした)。そのことから、哲学は「主観的で、(主張の意図を正しくつかんでいれば、)誰でも批判によって考えを発展させられるから有用である」という主張をしました。
哲学についての感想
哲学に限らず、一般に学問は、自分一人では考え付かなかったような問いを、統一的な原理に則って、論理的に考えて結論を出しています。それによって、自分とはまったく違う視点からの思考を体験できると思います。
自分と違う思考回路を体験できることに何の意味があるのかと問われれば、僕にも「分からない」としか答えられません。ですが個人的には、新しい刺激に感じられてとても面白いと思います。
特に哲学について言えば、哲学は基本的に「主観にとって”何物か”がどういう意味を持っているか?(=概念にどのような形を与えるか?)」という課題に対してどう向き合うか(問いをどう立てるか)を考えてから、論理的に答えを導いています。
哲学にはそのような性質がありますから、哲学者が立てた問いには、「言われてみれば、どういう意味なのだろう?(言われなければ気づけなかった)」と感じるものが多いです。そのように、思いがけない視点から、論理的に意味や常識を崩してくれる(あるいは、説明してくれる)感じがします。
そのおかげで、日々何気なく使っている言葉や概念に、より自覚して接することができるようになって、面白いと思うのです。
まぁ、「それがどうした」と言われてしまえばそれまでかもしれませんが。
P.S. 実はこの記事は、1記事当たりの長さだけでなく、(文字数で言えば)書き直しも今までの記事の中で一番多くなりました。
- 6000文字書く→論理的に、記事のテーマが無意味だと分かって、すべて破棄(進捗0文字)
- 9000文字書く→記事のテーマが、再度無意味だと分かって、すべて破棄(進捗0文字)
- 7000文字書く→勘違いされやすそうな議論をしているから、2000文字を破棄(進捗5000文字)
- 9000文字書く→論理的におかしなことを言ってるから5000文字破棄(進捗9000文字)
- ・・・
と、幾度となく書き直しを加えた結果、数万文字を書き捨てました。文字数で成果を語ろうとは思いません。ですが、試行錯誤して書いていたのだなと、雰囲気だけでも気に留めていただけると、僕としては嬉しいです(まぁ、気に留めていただいた結果、何がどうなるということはまったく無いのですが)。
2連続でテーマが無意味だと分かってしまったときはかなり凹みました。いつも記事を書きながら考えてるので、話を進めていると、後から「あっ、これ無意味やん・・・」って気づくことが多いんですよね。
この記事もまだまだ考察が不十分です。書きあがった記事を読んでみても、我ながら怪訝に感じる部分が多々あります(僕が思考した軌跡の一通過点だとお考えいただければと思います)。
多少の不満はありますが、それでも書き直すたびに、自分が本当は何を考えていて、何を言いたいのか、何を言うべきなのかが洗練されていくように感じられたので、個人的には、書いてて楽しかったです。文字を重ねるごとに、(明確には言語化出来ていなかったけど、)なんとなく認識してはいた感情を説明してくれる言葉が組みあがっていく様子が、とても面白かったです。
またこれくらい手の込んだ記事も書きたいです。
PostScriptまでお読みくださり、ありがとうございました。お疲れさまでした。