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日本は終わったか? GDP編 〜日本悲観論を考察してみる〜

記事内に広告が含まれています。

今回は通算100記事目の記事になります。僕がブログを初めてもう4年以上経っていますが、それだけの時間をかけてようやく100記事なのですから、牛の歩みですね。

※1. しかし、後から非公開にする記事があるかもしれないので、タイミングによっては100番目の記事にはなっていないかもしれません。

ここまでブログを続けてこられたのは、皆さんが僕の記事を読んでくださったことが励みになったからです。ありがとうございます。まだまだ存在していられる限りは、色々なことを皆さんに紹介していきたいと思っていますので、これからも当ブログ『データマイナーAkitoの数学館』を、ご贔屓にしていただけると幸いです(最近はもはや数学館ではなくなってきていますが)。

さて、今回は100記事目記念に何か特別な記事を書きたいなと思っておりました(その”特別な記事”を何にしようか悩んでいたら、かなり投稿期間が空いてしまいました)。ということで日本の将来(あるいは現在)について語ってみようかと思います。

これまで僕は、あまり日本について語ることはありませんでした。これは僕が経済や政治については素人なので、そもそもそんなに深いことを語れないというのが大きいです。ですが、だからといって日本について思うところが何もないかと言えば、そういうわけでもありません。

特に最近は「日本はもう終わりだ。海外に移住するしかない」とか、「今後の日本は衰退していくしかない」といったような、日本の悲観論とでも呼び得るような言説をYouTubeやX(旧Twitter)上でよく目にしますから、なおさら日本について考えさせられます。

なので今回は、特に日本の悲観論を考察してみることにします。

僕はその具体的な内容は詳しくは知りませんが、漠然と次のような話題があるように感じています。

  1. 日本のGDPが上がらない(不景気が終わらない)
  2. 少子高齢化
  3. 年功序列に代表される古き悪しき慣習に縛られた仕事方法
  4. (悪い慣習の一つとして)なかなかITが浸透しない

最後の2つについては「生産性が低い」とも表現できそうですね。そして先ほど挙げた「日本はもう終わりだ」とか、「今後の日本は衰退していくしかない」といった言説は、これら4つの悲観論に基づいたものだと感じています。

今回はこれら4つの悲観論について、日本に住んでいる一国民として、思うところを記事にしてみます。

※1. もしこれら以外に取り扱ってほしい社会問題、あるいは社会現象等ありましたら、お問い合わせの方から、次のようなメッセージを僕の方に送っていただければ、また気が向いたら(=今回のように、特別な回などで一つの記事として)取り扱うかもしれません。

※1. もしも、社会問題や社会現象を送っていただくのであれば、冒頭に<Japanese social issues>(あるいは、アルファベットの入力が面倒という方は、<社会問題>でも構いません)という文言を入れていただけると(あなたの興味がある社会問題・社会現象を自動処理で抽出できるので、)助かります。

※1. 例文
  パターン1:
    <Japanese social issues>
    〇〇という社会問題を取り扱ってほしいです。

  パターン2:
    <Japanese social issues>
    〇〇が△△となっていると感じるのですが、どう考えますか?

  パターン3:
    <日本の社会問題>
    日本が〇〇であることについて、意見を聞かせてください。

※1. お問い合わせのページにはメールアドレスを書く欄がありますが、社会問題や社会現象については、僕は個人的に(先にも述べたとおり門外漢ですから、)返答するつもりはありません。なので、「運が良かったら(以降の記事で)取り扱われるかもしれない」くらいの気持ちでお送りください。

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個人的に注意してほしいこと

僕はこれまで日本のことにはまったく言及してきませんでした。これは、「『数学館』と銘打っているのだから、そのテーマから外れるものは扱わないのは当然だ」と理解されるでしょう。たしかにそれも、僕がこのようなテーマを扱ってこなかった理由の一つです。しかし、それはもう一つの大きな理由に比べれば、ほんの些細なこだわりに過ぎません。

その大きな理由とは、「ある程度以上真っ当な議論を知ってしまうと、社会状況・社会問題の複雑さを忘れ去ってしまうかもしれない」というものです。なので僕がここで注意したいことは、一言で言うなら「問題の複雑性を忘れないでいただきたい」というものです。

社会問題は多面的なものであると僕は考えています。例えば少子化問題について議論するとなれば、その目的によって、議論の形態は様々に変わるはずです。目的が少子化問題の原因を探ることであれば、例えば年齢ごとの結婚率や、若者の意識調査、あるいは子育てにかかる費用、子育て支援を行っている企業の数(と、支援の具体的な内容)、子育て支援を行えるような社会制度は存在するかといったような視点からの議論が考えられます。

ある社会問題(少子化問題)について、たった一つの目的(原因を知りたい)に対して議論することを想定しただけでも、このように様々な切り口が考えられるわけですから、他の目的(例えば、どうして少子化社会になってきたのかという歴史を知りたい、あるいは、なぜかつては少子化社会でなかったのかを知りたい等)に対する議論を想定すれば、さらに大量の議題が考え出されるはずです。ここには書かなかった(あるいは、僕が気づけなくてそもそも書けなかった)側面もあるでしょう。

他の議論も同様に、日本社会や社会問題についての議論は、ある側面から見た議論でしかなく、その側面以外をすべて無視した議論となっているだろうと、僕は考えています。

僕はこのことを非難するつもりはありません。

そもそも一つの議論ですべての側面を同時に扱うのは難しいでしょうから、議論したい側面を(恣意的に)選択するのは当然のことだと考えています。それどころか、建設的な議論のために、ある側面が積極的に取捨選択されたのであれば、それは称賛されるべきだとすら思います。

このような事情を、議論の当事者は(必ずしも意識しているとは限りませんが、)理解しているでしょう。しかし往々にして、議論を後から理解しようとする人にとっては、その議論がさも最も正しい言説であるかのように感じられてしまうものです。説得力のある議論なら尚更そうでしょう。

議論の追走者は、その議論が最も正しい言説であるように感じてしまうと、あとはその議論が正しいのかどうかを判断して、正しくない部分を補強するだけだと錯覚しまうかもしれません。

それは議論によって示されている真実を鍛えて、唯一の正解に辿り着こうとする態度に他なりません。もちろんある程度は正しい考え(紙には裏と表があるという考えを否定することはできないといったような感じで)というものはあるでしょう。

しかし、もし社会的に絶対的で唯一の正解というものがあるとしたら、人はほとんど矛盾を抱えずに生きていけることでしょう。もしも人が矛盾を抱えておらず、したがって唯一の正解と考えられる行動だけを取ればいいという状況では、人はロボットと何が違うでしょうか?人の人らしさたる所以は、様々な場面で現れる矛盾を抱えながら生きていくことにあるのではないでしょうか?だからこそ、主人公が矛盾に打ちのめされながらも必死で生きようとする物語を、面白いと感じられるのではないでしょうか?

人間が矛盾に直面することを運命づけられている存在なのであれば、ある社会問題を議論によって克服できたとしても、さらに新たな社会問題が人間の矛盾として生み出されることでしょう。

そのため、社会問題に対して絶対的な正解があるとする考え方には、僕は賛成できません(将来は考えが変わっているかもしれませんが、少なくとも記事の執筆時点では)。

世の中には、そのような(いわば議論の前提とも呼び得る)考え方を持っている人が集まっている場(例えば、学術的な議論が行われる場であったり、政治家同士での議論が行われる場など)も存在します。

しかし、個人ブログに集まるのはそのような人ばかりではありません。ですから、中には僕の議論を読んで、それがすべてだと思い込む人も少なからず存在しているだろうと考えています。「〇〇という議論・言説が絶対的に正しい」という態度は思考停止や、あるいは視野狭窄と呼ばれる態度に他なりません。

(様々な視点からの問題提起や議論が必要である)社会問題については特に、人を思考停止・視野狭窄に陥らせかねない記事を書きたくないというのが僕の考えです。

このような理由から、僕はこれまで社会問題を取り扱ってきませんでした。

しかし、このように説明すれば、(そして、この説明を読めたあなたであれば、)問題ないだろうということで、長々とお気持ち表明をしました。

まとめると、僕がこの記事で行う議論は所詮、悲観論のある側面から見た批判でしかなく、日本の状況をさらによく知るためには、もっと良い考え方があるかもしれないということに注意してください。また、僕の議論の中には(正しい箇所もあるでしょうが、)間違いも含まれている可能性があることに注意してください。

そして最後に、社会状況や社会問題の複雑さを忘れないようにして、さらに考え続けるということを忘れないようにしてください。

これが、この記事を読む上で僕が注意したいことです。とは言え、考え方は人それぞれでしょうから、強制するつもりはありません。長くなってしまいましたが、次の節から考察を始めていきましょう。

前提知識の確認

冒頭で挙げた日本の悲観論は(少し表現を簡略化していますが、)次のようなものでした。

  1. GDPが上がらない(不景気が終わらない)
  2. 少子高齢化
  3. 仕事方法が(効率の悪い)習慣に縛られている
  4. IT化(効率化)がなかなか進まない

この節から、(個人的には、この4つが悲観論の主なものだと感じているので、)これらを議論していきましょう。

しかし、書いていると毎度の如く長くなってしまったので、この記事ではGDP問題のみを取り上げて、残り3つは他の記事に回すことにします。

GDPとは何か

まずはGDPの問題から考察していきたいわけですが、ところでこうは思いませんか?「自らが何を議論しているのか分からないのに、議論などできるはずもない」と。皆さんはGDPという概念を理解できていると、自信を持って言えるでしょうか?こういう記事を書いておきながら、僕もあまり自信はありませんでした。

ということで、僕への自戒と皆さんとの認識の擦り合わせの意味を込めて、ここでGDPを確認しておきます。よくご存知の方は適当に読み流してください。

※2. ここではざっくりとしか解説しません(し、できません)が、より詳しく知りたいなら、この資料が参考にできるのかもしれません。大学や研究機関が発表している資料ではなく、内閣府が発表している資料を挙げているのは、GDPの算出方法は、細かな部分で国ごとに違いがあるらしいからです。それならば、日本のGDPについて細かな議論をするときは、内閣府が発表している算出方法を参照すべきでしょう。

その概要を確認するのであれば、内閣府によるこの記事が参考になりそうです。それによると、GDP(国内総生産)とは「ある国の中で、一定期間内に生産されたモノやサービスの付加価値の総合計のこと」と定義されています。

より具体的な計算式として、ダイヤモンドオンラインによるこちらの記事も参考になりそうです。要するに、「国民総支出(Y)は、民間消費(C)、公的消費(I)、投資(G)、貿易収支(X-M)の合計値である」ということですね。

このように、定義を確認することは理解するための手段の一つです。しかしそれだけだと、その言葉で伝えたい気持ちの方まで理解できず、結局は無味乾燥な言葉遊び、あるいは概念の機械的な置き換えでしかなくなってしまうように感じます。

特に、内閣府による定義に使われている(「ある国の中で生産されたモノ」や「ある国の中で生産されたサービス」、「総合計」、「一定期間内に」といった言葉は直感的にも理解できますが、)「付加価値」という言葉は少し分かりづらいです。

そこで次のような、(言葉にすると極めて短い)モノや状況の変化を考えることで、理解を深めてみます。

「ある人が100万円で車を作りました。その車が300万円で売れました。」これだけです。「その人の売上高は300万円で、利益は200万円だった」と補足しても、かなり短いですね。

ですが、これだけの短い言葉に、重要な概念が隠されています。一つずつ確認していきましょう。

まず車が生み出された過程を考えてみます。その人が手を加える前は、その車は原材料の集合体でしかなく、重たいだけの金属の板だったり、ただぶよぶよしているだけのゴムの塊でしかなかったはずで、とても『車』とは呼び得ない物体の寄せ集めでしかなかったはずです。

しかし金属の板を整形したり、あるいはゴムを金属と組み合わせて車輪に作り変えたりといったように、様々な加工が施されると、ただの物体の集合でしかなかった原材料から、「人の足では到底出し得ない速度で移動したい」という要求を満たし得る機能を備えたモノ(車)が生み出されます。

つまり加工によって、それまではまったく存在しなかった機能が生み出されたわけです。この出来事は「付加価値が生み出された」と言い換えられるように感じます。しかし、それが本当に付加価値であるためには、人に使ってもらわなければなりません。

このことを理解するために、例えば、車にアクセルペダルの振動を抑える機能をつけたと想像してみてください。それは付加価値でしょうか?付加価値ではないでしょうか?人によってはそれは付加価値とは思えないでしょうし、人によってはそれは付加価値と思えるでしょう。

もしその機能に対して、「靴では振動を吸収してくれないし、アクセルペダルが振動していると、寿命が短くなってしまうかもしれない。そもそも振動しているというのがなんとなく(感覚的に)嫌」と評価する人であれば、後者の立場を取るでしょう。

もしその機能に対して、「きっとアクセルペダルが壊れるより前に、他の何処かが壊れるだろうから、寿命的な観点からは別に必要ない。それに、その振動があることで、自分が運転しているという実感を得られて楽しいから、むしろその機能を付けないでほしい」と考えれば、前者の立場となります。

このように、同じモノ(機能)であっても、ある人にとっては付加価値に感じられ、別の人にとっては付加価値に感じられないということがありえます。この考え方でいくなら、付加価値か否かは最終的には主観的に判断されるものとなって、GDPも計算する人によって評価が大きく変わる数値ということになるでしょう。

極端な話、すべてのものが不要であると考える人がいれば、その人にとってはどの国のGDPも0だということになります。しかしそれは妙な考え方に思えます。

では、付加価値かそうでないかは、どのような基準で測ればよいのでしょうか?ここの例で言うなら、アクセルペダルの振動を抑える機能が付加価値か否かはどう決めればよいのでしょうか?

これに有無を言わせぬ答えを与えることができます。それは、「買われたのであれば付加価値とし、買われなければ付加価値としない」という答えです。

“それ”を付加価値だと感じた人は買うでしょうし、”それ”を付加価値でないと感じた人は買わないでしょう。つまり、個人的な感性を客観的な指標に置き換えることができています。こうすれば、人による感性の違いは無視できます。あるいは、感性の違いを上手く考慮できたことになります。

これが「”それ”が本当に付加価値であるためには、人に使ってもらわなければならない」の言いたい意味です。

つまりここでは、ある人が100万円で車を作っただけでは(経済的には)意味がなくて、それが付加価値となるためには、それを誰かに買われる必要があるということになります。そして車が300万円で売れたという事実によって、(後付け的に)付加価値の大きさが評価されるわけです。

これは具体的なモノが作られて、付加価値が生まれた例でしたが、サービスについても同様です。あるサービスから付加価値が生まれるためには、ある人が(例えば資金や技術によって)サービスを成立させる必要があることは言うまでもありませんが、それだけでなく、さらにそのサービスが購入される必要があります。

これが(僕が理解している)付加価値というものです。ざっくりと言うなら、売る・買う(あるいは支払われる・支払う)という2つの活動が揃って初めて、付加価値が生まれ、そしてGDPが高まるということになります。

GDPとこの付加価値の話を合わせて解釈すると、作られたモノ・サービスの総額(これを測ることはそもそも不可能であることは、今の話から明らかでしょうが)ではなく、買われたモノ・サービスの総額が、(生み出された付加価値の総額となり、)GDPに計上される数値となるといった辺りになるでしょうか。

この話から、民間消費や政府消費は、「売る・買う」という関係が成り立っているので、GDPに計上されるべき数値であるということは理解できると思います。また、民間投資というものも、やはりある種の「売る・買う」という関係である以上、それもGDPに計上されるべきでしょう。

ところで、車を作るための原材料(金属やゴム)はどこから仕入れたものでしょうか。それらも商品として取引されている(つまり、売る・買うという関係が成り立っている)以上は、GDPに計上されるのだろうかと、勘の良い人なら疑問に思うかもしれません。

ここで、GDPの定義をもう一度読み直してみてください。その定義の中には「国内で」とあります。現状日本にはほとんど資源がなく、海外からの輸入に頼っています(金属やゴムも同様です)。それら原材料は、あくまでも日本国外にある企業が日本国外で生産したモノであるため、日本のGDPには影響しません(原材料が生産された国のGDPは高まります)。

つまり、輸入は相手国に日本円を支払う動きであり、輸出はその逆に、相手国が相手国通貨を日本に支払うという動きです。そのため、貿易収支は輸出額−輸入額となっています(まぁ、輸出入の話は理解できている人が多数だと思いますが)。

ざっくりと考えるなら、日本では原材料に対する支払いがGDPに合計されることはないと考えてもいいのかもしれません。

これが(とりあえず僕が理解している)GDPです。ここまででGDPについて、皆さんと僕とでイメージを共有できたでしょうから、このGDP理解を前提に考えを進めていきましょう。

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そもそも考えるべきことは何か?

ここで考えている問題とは、「日本のGDPが上がらない(不景気が終わらない)」というものでした。命題の形にするなら、「日本のGDPが上がらないことは問題である」といった感じになります。

問題が分かりやすく表現されすぎているため、つい「如何に解決すべきか」という話に進みたくなるところです。しかしそれは結論を急ぎすぎであるようにも感じられます。

というのも、この問題は1つの分かりやすい命題であるように見えて、実際には以下のような命題が(前提や含意として)含まれていると考えられるからです。

  1. GDPは景気を示す指標である(GDPが高いと景気が良い)
  2. 日本の将来を議論するとき、GDPという数値を持ち出すことは正しい
  3. GDPが上がらないことは問題である
  4. GDPが上がると日本は良くなる(から、自分の生活が楽になる)

もちろん素早く結論を出すのが重要である場合もあるでしょう。しかし急ぎすぎて考えがおざなりになってしまっては、間違った結論に飛びついて痛い目を見るかもしれません。ここは地道に考えていきましょう。

景気とは何か?

先ほどGDPを解説するときに挙げた内閣府のページに、「以前は日本の景気を測る指標として、(中略)GNPが用いられていたが、現在は(中略)GDPが重視されている。」とありますから、(他にも参考にしている指標はあるかもしれないものの、)内閣府としてはGDPを日本国内の景気を測る指標として利用しているのであろうことが伺えます(GDPが景気を示す指標かどうかを考えるとは、内閣府のGDPを参照するという態度が良い態度かどうかを考えることにもなりそうです)。

ところで、そもそも「景気」とは何なのでしょうか?それはGDPとどのような関係にあるのでしょうか?また、景気と聞くと給料との関係も考えたくなるでしょう。それらがどのように関係しているのかを考えていきましょう。

まず景気の定義としては、コチラのページが参考になりそうです。要するに、売ったり買ったりが大量に行われていれば景気は良くて、逆に売ったり買ったりがそんなに行われていなければ景気が悪いということになります。

シャッター街みたいな商店街は(売り買いが無いので)景気が悪くて、賑わっているショッピングモールは(売り買いがシャッター街よりも多いでしょうから、相対的に)景気が良いということになりそうです(景気は本来、国全体といったように、大きな規模で使うべき概念なのでしょうが)。なんとなくイメージ通りですね。

先ほどGDPを説明したときに、「売れて初めて付加価値となる」という話をしました。売れるためには、ある程度以上売り買いが活発に行われている必要があります。

このことから、景気が良ければ(付加価値として認められる額が高まって、)GDPも高くなると考えられます。そして商品が大量に売れているのであれば、企業はより一層商品販売に力を入れることでしょう(例えば新商品の研究開発に力を入れたり、工場の設備を一新して、商品の製造効率を高めたり、あるいはIT企業なら人員を拡大するといったような形で)。

その一環で、労働者の賃金が上がるかもしれません。継続的に給料を上げることはなくても、ボーナスといったように(突発的な形で)、景気の良さが労働者に還元されるかもしれません。

しかしそうはならない可能性もあります。企業からすると、商品を生み出すための必要経費が高くなったため(あるいは、投資のために資金が少なくなったため)、いつでも動かせる資金を以前よりも多く確保しておきたいと考え、景気の良さが労働者には還元されない可能性もあるからです。

以上をまとめると、景気はGDPに影響して、景気は給料に影響する可能性はあります(しかし、GDPと給料の関係はこの考察からはよく分かりません)。

また、売り買いが活発に行われていることが景気が良いということなのですから、景気が良いときには経済的に余力のある人が十分に存在しているはずです。経済的に余力のある人が存在しなければ、そもそも「買う」という行為が成り立たないからです。

同時に、企業としても人に欲しいと思われるような商品を作れている必要があります。人が欲しいと思う商品を作れていなければ、そもそも「売れる」という行為は起こりえないからです。

これらをより実感するために、次のような状況変化を考えてみます。

シナリオ1:商品が存在しないために不景気になっている例

すべての企業がすべての商品の値段はそのままにした状態で、(投資に回す分も含めて)すべての資金を賃金として労働者に渡したとします。すると、一人が受け取る額は会社にもよるでしょうが、大きな会社であれば1ヶ月で数百万や数千万をもらうケースも出てくるでしょう。それほどの大金ではなくとも、現在よりも給与が上がることは間違いなさそうです。

つまり個人の給料はとても高くなります。これは喜ぶべきことかもしれません。人々は何でも好きなものを買えるようになったのですから。・・・本当にそうでしょうか?

そんなことをすれば、企業は次の商品を作ることができなくなったり、古くなった設備を買い替えたりできなくなるため、遅かれ早かれ倒産するでしょう。すると、大量の人が解雇されることになります。つまり、(会社の総資産の大きさによって早さに差はあるでしょうが、)日本国内にあるすべての会社が漏れなく倒産することになります。失業率はほぼ100%です。

老朽化した建物を改修する企業もありませんから、あちらこちらで建物が倒壊し始めそうです。車も整備されなくなり、事故が多発するでしょう。電力会社も倒産しているでしょうから、電気だって使えません。

しかし人々は大量にお金を持っているため、商品が取引されている場と商品さえあれば、好きなものを買うことができたはずです。しかし、日本のすべての会社が倒産してしまったために、商品と呼び得るものが存在しなくなってしまいました。誰も何も運ばず、何も作っていない、保守点検すらなされない、そんな世界は、お金を持っていても、そもそもお金を使う場が存在しない世界に他なりません。

1つ目のシナリオは以上のようなものです。

これは、商品を日本国内から無くすために、(半ば意図的に)様々な要素を無視しました。なので、このシナリオ自体は正しいとは言えません(その意味ではこのシナリオには意味がありません)。結末がこの通りになる可能性も、限りなく0に近いでしょう。

しかし、商品が無くなった状態(つまり、「売る」が発生しなくなった状態)では、いくら人がお金を持っていたとしても不景気となるということはご理解いただけたと思います。

シナリオ2:買い手が存在しなくなることによって、景気が悪くなる例

仮に、失業率が高すぎたとしましょう。極端に80%とでも想定しましょうか。すると、日本国民の5人に4人は給料による収入がないということになります。その状況でもやっていける人はごくわずかでしょうから、家計が逼迫している人が続出するでしょう。そのため、商品の購入を抑えようとする人が多くなると予想できます。

これは、売り買りが活発でなくなることを意味します(もちろんクレジットカードによる後払いも可能ですが、いずれ支払わなければならないので、少し長い目で見ると買い手が減るという事情は変わらないでしょう)。つまり、景気が悪くなったということです。

企業としては、(商品を作っても売れないため、)積極的に投資しようとは思わなくなるでしょう。むしろ、投資には消極的になって、設備を取り壊したり、土地を売却したりと、投資の逆のような行動を取ることでしょう。

そうなると、新しい技術や商品が生まれにくくなり、余計に企業は利益を生み出すことが難しくなってきます(投資をしないと、経済的に余力のある残り20%の人に欲しいと思われる商品を作れる可能性が低くなるからです)。

すると企業が倒産する可能性が高まります(このことは、企業がモノやサービスを生み出すのは、そもそも消費者を仮定できるからだということからも明らかでしょう。最終的にモノやサービスを利用する消費者が存在しなくなってしまえば、どの企業も経済活動を行う理由を失ってしまいます)。

※3. もしくは富裕層に対するモノやサービスだけが発展する可能性もあります。このように表現すると悪い印象を持つ方も多いかもしれませんが、それは必ずしも悪いことではありません。富裕層がそのようなモノやサービスを購入することで会社の利益が出れば、会社がその商品を作るために人を雇用しようとします。すると、最終的には失業率が減少して、家計が回復する家庭が増えるからです。この理由から、富裕層が贅沢をできるということを非難するのはお門違いと言えるでしょう(富裕層の大きな消費を殊更にありがたがる必要もないでしょうが)。

これによって、お金がなくなる(「買う」という行為が発生しなくなる)と、いくら商品が作られたとしても不景気となることが分かります。こちらは想像どおりでしょう。

ならば、景気が良いとは?

シナリオ1は日本企業の全倒産(「売る」が無くなった)、シナリオ2はお金が無い人の大量発生(「買う」が無くなった)といったように、どちらもディストピア的なシナリオでした。前者のシナリオでは荒廃した都市が想像できますし、後者のシナリオでは退廃的な人の集団が想像できます。

売り買いがある程度活発に行われていれば、そのような事態は防げるはずです。

「売る」が可能であるためには、企業はある程度投資を行ったり、設備を整備したり、IT企業のように工場を持つ必要がなくても、知識をアップデートするための勉強資料(AI論文とか本とか)やクラウドサービスを買ったり、サービスを作れる程の技術を持った人員を確保しておかなければなりません。

「買う」が可能であるためには、多くの人がお金を持っていて、かつそれらの人が欲しいと思うものを企業が売っている必要があります。

この「買う」の条件である「多くの人がお金を持っていて」という部分に注意してください。仮に100人の村で、その村の人々が持っているお金を合計すると1億円だったとします。そのとき、次のような2つのパターンを考えてみてください。

1パターン目は、1人が1億円を持っていて、それ以外の人が全員0円持っているという状況で、2パターン目は、全員が10万円ずつ持っているという状況です。

人一人が欲しいと思うものには限度があるでしょうし、売られているものの額にも限度があるでしょう。ですから、前者と後者を比較すると、後者のほうが景気が良くなりやすいと言えるでしょう。

(ベンサムの最大多数の最大幸福ではありませんが、)こと「景気」という観点から言えば、多くの人に富が分散していたほうが良いということが分かります。また、GDPについても同様に、多くの人に富が分散していたほうが上がりやすいと言えるかもしれません。

ところで、経済的余力のある人が十分に存在するということは、従業員が何かを買えるくらいの給料を企業が払い、企業が魅力的な商品を売っているということになります。そのとき、企業は利益もあるでしょうから、倒産することは無いでしょうし、また、労働者も失業しづらいでしょう。

その状況を悪い言い方で表現すれば、人々が企業に飼い慣らされている状況と言えるでしょうが、しかし上のシナリオ1と2に比べればまだマシではあるように感じられます(これをどう捉えるかは個人の感性次第ではありますが)。

またこのことから、景気が良いとは(不景気のときに比べれば)企業の資金繰りが易しい状況にあることを意味し、決して給料が高い状況を意味するのではないということが分かります。

もちろん、企業の資金が潤沢であれば、給料が高まる(昇給ではなく、ボーナスといったような形かもしれませんが、企業から受け取る賃金が上がる)可能性は高いでしょう。しかし景気が良いからといって、必ずしも給料が高くなるとは限りません。

またこれは、富裕層が存在しなくなればいいんだといった話ではありません。また、富裕層からお金を絞り取ればいいんだという話でもありません。金持ちがいたとしてもいなかったとしても、いずれにしても多くの人がある程度以上の経済的余力を持っているときが、最も景気が良くなるだろうという話です。

たしかに景気という観点から見れば、富裕層に富が一極集中している状況は良くないのかもしれません。その意味で富裕層の存在を否定したいという論理にはある程度の説得力があります。

しかし景気が良いためには、企業が「売る」をできる必要もあります。つまり、企業が上手く経営されて、必要とされる商品を作って、時代に合った方法で販売している必要があります。これは企業を経営できるくらい能力が高い人が必要だということにもなります。ところでこの時代、富裕層とは多くの場合、そういった能力を持った人です。

つまり多くの場合、富裕層の存在を否定すれば、企業を経営できる能力を持った人を否定するということになり(そういう人はどこでもやっていけるでしょうから、海外に移住するかもしれません)、最終的には企業が商品を販売できなくなります。すると結局は不景気となるでしょう。

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GDPは景気を表す指標だろうか?

さて、これまではGDPと景気という2つの概念を確認してきましたが、当初の目的はGDPが景気を表す指標として妥当かどうかを考えることでした。

とりあえずこれまでの話から、景気が良いためには、少なくとも企業が必要であること、そして、その企業が生産する商品を買える人々が必要であることが分かりました。そして、企業が商品を生産し続けるためには利益が必要です。

利益がなければ研究開発も設備投資も、場合によっては商品生産や販売すらできないかもしれません。それはつまり、人々の享受できる商品が存在しなくなることを意味します。

ところでGDPの定義を思い出してください。これは、国内の企業が生み出した付加価値の合計額のことでした。そして付加価値の合計額とは個人が消費した総額で、国内の企業の利益の総額だったのでした。また、景気が良ければ企業は利益を得やすくなるのでした。

ということは、景気が良ければGDPが高まることが予想されます。これは、論理の流れで言えば「景気が良い→GDPが高い」という流れです。「GDPが高い→景気が良い」ではありません。しかし、内閣府はGDPを景気の良し悪しを判断するために参考にしている(と伺える)のでした。

景気が良ければGDPが高いとは言えそうですが、その逆(GDPが高いと景気が良い)は言えるのでしょうか。

GDPが高まったということは、企業の売上が大きくなった(つまり、消費額が大きくなった)ということですから、企業は何かしらの工夫によって売上を増やしたことが予想されます。では、企業は何をしたのでしょうか?これはつまり、あなたが会社を運営している立場の人間であれば、会社をどのように動かすか?という問いと本質的には同じです。

パッと考えて思いつく方法としては、次のような方法でしょうか。

  • IT化によって仕事を効率化する
  • 特許を取得したり、新技術、新サービスを開発したりする(社員に頑張れと言う)
  • 新しい経営方針を打ち出して、大量の資金を確保する

どれも難しいですね。ところで、これらのどの方法よりも、もっと簡単な方法があります。それはリストラです。

つまり同じ売上でも、人件費が少なければ、より高い利益を得られて、投資に回せる額が増えます。すると、GDPの額は増えますが、給料をもらえない人が増えることになります。これは小規模なシナリオ2のようなものです。

一応シナリオ2を要約すると、解雇された人が増えると、モノを買いづらく(経済活動を行いづらく)なる個人が増える→企業の利益が伸び悩む→さらに買い手の金銭的余力が無くなる→さらに企業の利益が伸び悩むといったものでした。

つまり、リストラによって人件費を削減すれば利益が高まり、投資額が増えて、短期的にはGDPが高まる可能性があります。ということは、GDPは必ずしも景気を表しているとは言えなさそうです。

※4. 僕は、リストラは必ずしも悪いことだとは考えていません。社員をある程度会社の裁量によって解雇できないと、社員を雇うことは会社にとってリスクとなります。会社は不要なリスクを避けるように動きますから、どの会社も商品提供に必要な人員以外は雇おうとしなくなるのが当然の流れです。

※4. 特に、ITシステムのようなツールは所詮はツールであり、それを維持する人員は本業とは関係ありません。なので、ITシステムを作る人・メンテナンスする人については、特に雇おうとしなくなるでしょう。

※4. すると、SIerのように人を提供することを仕事にする会社の需要が高まります。これは(例えばみずほ銀行の障害などに代表されるような、)多重下請け構造による問題につながる可能性があります。なので僕は、(ことソフトウェア業界においては)会社が今よりも社員を簡単に解雇できるようにするのは悪くないのではないかと考えています。雇われる僕ら側からすると嫌ですが。

GDPは景気を必ずしも表すとは言えないということになったわけですが、ところでこのような考え方から、また別の側面が見えてきます。

それは、GDPが高いとは、(理由はどうあれ短期的には)企業の利益が大きいということを意味しそうだということです。企業は利益が大きいほど生き残りやすくなりますから、GDPが高ければ、企業が全体的に生き残りやすい傾向にあると言えるかもしれません(もちろん、各企業が研究開発や商品販売をできる人材を確保していればという条件付きではありますが)。

逆にGDPが低いときは、企業が全体的に生き残りづらい傾向にあると言えそうです。このことから、GDPは企業の全体的な生き残りやすさを数値化したものだとも言えそうです。

では、そのような特徴を持ったGDPを、内閣府が景気を示す指標の一つとして利用しているのは正しいのでしょうか?

政府が景気を評価するのにGDPを利用しているは正しいことか?

そもそもですが、政府がGDPを気にかけることは正しいことでしょうか?個人的には正しいと考えていますが、検証してみます。

まず政府にとって大事なことは、民意に則った政治を行うことでしょう。この民意がどのようなものかは時代によって、また国によって様々でしょうが、現代日本においては、日本国民が安全に暮らせること、個人の自由が尊重されること、人権が守られることが最も重要で、平等さや裕福さも(重要であることに変わりはないけど、)それらよりも重要度は落ちるといった感じになるのではないでしょうか。

だからこそ、政府は社会保障を充実させて、国民の安全や健康を確保しようとするし、他国に侵略されたりしないために、また、日本の海上輸送や航空輸送などの安全を確保するために、軍事力を増強しようとするわけです(他国が軍事力を強化すれば、日本が安全を確保するには今の軍事力では不十分となるからです)。

当たり前のことではありますが、それらを可能とするためには、それらを可能とできるだけの力(国力とでも言うのでしょうか)が必要です。ではその力とは何でしょうか。これも様々な要素が考えられますが、企業の存在は欠かせないでしょう。なぜなら、ソフトウェアや半導体、高機能材料といった様々な工業製品を作れる組織、設備、ノウハウを持っているのは企業だけだからです。

たとえ政府が主導するプロジェクトであっても、半導体部品が必要な場合に、その現物を用意できるのは企業であって、政府ではないでしょう。半導体部品を作るためにはフッ化水素が必要だそうですが、ではフッ化水素は誰が作るのかと言えば、やはり民間企業以外に無いでしょう。

そのように考えると、日本国政府が国として守るべきものを(たとえ多少の国民を犠牲にしたとしても、)企業であるとしていてもおかしくはありません。もちろん、最終的に守るべきものは国民としてくれているでしょう。しかし国民の安全のためには、国家の武器である企業、もっと言うなら企業の持っている各種製造技術(や、その製造技術を存在させられている企業文化)をまず守るというのは至極当然の話のように思えます。

そうである以上、日本の行政機関の一つである内閣府が日本の企業がどの程度生き残りやすい状態かを示すGDPを気にかけるのは、極めて理に適ったことだと考えられます。

ではGDPを景気の判断材料(の一つ)としているのはどうでしょうか。こちらも条件付きではありますが正しいと考えられます。GDPは、(企業の売上状態という)景気の一側面を確実に捉えている数値だからです。

また、(少なくとも短期的には)GDPは企業の生き残りやすさの目安にはなるかもしれないということでした。たとえ長期的に企業が生き残りやすい環境であったとしても、短期的には企業が生き残りづらい環境になっていて、今企業が破綻してしまえば、いくら長期的に企業が生き残りやすくても関係ありません。その企業が保有していた技術は他の国に流れていってしまうかもしれません。

そのため、たとえ短期的にであっても、また目安でしかなく、状況を完全に表してはいなかったとしても、GDPも利用するという態度は極めて理に適ったことだと考えられます。

しかしこれまで失業率など他の指標とも関連させて説明してきた通り、景気とは様々な視点から評価されるべきであって、GDPは重要指標であるとは言え、所詮は一視点に過ぎません。なので、もしも政府が景気の良し悪しをGDPだけを根拠に議論しているのであれば、政府はそのことについて国民から非難されても文句は言えないでしょう。あるいは、政府は景気の判断にGDPしか見ていないとすると、その理由を説明しなければならないでしょう。

長くなったので一旦まとめておくと、ここまでGDPと景気という2つの概念を確認しました。そしてGDPと景気の関係は単純なものではないとも分かりました。あくまでも、景気が良ければGDPも高い傾向にありそうだとは言えそうでしたが、それ以外のことは言えなさそう(例えばGDPが高くても、必ずしも景気が良いとは言えない)でした。

では、日本の将来を議論するときに、GDPや景気といった概念を持ち出すのは正しいことなのでしょうか。

GDPや景気は、日本の状況を表す指標として極めて重要なものであることは間違いないでしょう。しかし、例えばすでに何度か話に出てきている失業率(あるいは就業率)だって、重要な指標です。

そのどれを使って議論するのが正しいのでしょうか。あるいはそれら以外のまったく別な数値を使って議論するのが正しいのでしょうか。

それは僕なりに答えるなら、「議論の目的による」というものになります。このようなどうとでも解釈できそうな答えでは納得できない方も多いでしょうから、節を変えて議論していきましょう。

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GDPを議論の根拠にするのは正しいか?

これまでの話から、GDPとは、日本全体で見たときに、企業がどの程度生き残りやすい状態にあるかを(完全にではないものの、)表した数値だと考えられるのでした。これは、「GDPとは、企業がどの程度新しい技術を生み出す余力を持っているかを数値化したもの」とも言い換えられるかもしれません。

なので、企業が全体的に見て生存しやすい(あるいは、企業が全体的に見て生存しづらい)状況にあるかどうかが議論の根拠として適切である場合には、GDPを持ち出して議論を進めるのは極めて妥当なものでしょう。しかし、それが議論の根拠として適切でない場合はGDPを持ち出すこと自体がそもそも的外れであるということになりそうです。

また、新しい技術がどの程度生まれやすいかを議論するときにも、GDPを根拠にするのは妥当かもしれません。

もちろん、いずれの場合においてもGDPという指標だけで議論するのは無理があるでしょうから、他の数値も合わせて議論することになるでしょう。しかし、企業の生存可能性や技術の誕生可能性を議論する中で使われる根拠の一つにGDPがあっても、それほどおかしなことではないとは言えそうです。

しかし、社会保障が今後どうなるのかを議論したいのであれば、GDPよりも税収額を利用する方が妥当でしょう。日本の社会保障は税金によって賄われているからです(もちろん、どのような論理を組み立てるかによりますが)。

ところで、皆さんは「日本の将来」や「日本の現在」という言葉でどのようなものをイメージしますか?

もしかしたら年金に代表される社会保障の将来をイメージしたかもしれませんし、将来の自らの年収をイメージしたかもしれません。あるいは学生の方なら、新卒の人がどれくらい企業に就職しやすいかをイメージしたかもしれませんね。

これらはいずれも日本の将来、あるいは現在の一つと言えるでしょう。しかし、「日本の将来」や「日本の現在」という単語はあまりにも曖昧すぎて、これ以上の議論は不可能です。

なので、日本の将来を議論するときに、GDP(あるいは景気)の話を持ち出すのが妥当かどうかは、その議論の具体的な内容によるとしか言えません。その意味で、答えは「議論の目的や、GDPの使われ方による」になります。

なんとか基準を表現するなら、GDPの性質と論理の内容がどの程度一致しているかといった辺りになるでしょうか(例えば、「GDPはどのような意味でも国力を表さないわけだが・・・」みたいな話は、そもそもGDPの性質から考えておかしな話です)。

より一般化すると、その指標(例えばGDPや失業率、景気)の性質に適った論理が組み立てられているなら妥当な議論で、その指標の性質に反する(あるいは関係がない)論理が組み立てられていると、その議論は怪しいといったような感じになりそうです。

ここで、あくまでもその判断は程度評価的なもので、白か黒か、0か1かといったようにきっぱりと分けられるものではないことに注意してください。

では次は、GDPが上がらないことは問題であるか考えてみます。

GDPが上がらないことは問題か?

「GDPが上がらないことは問題だ」といったような、何かしらの言説を見かけると、疑り深い僕はまず前提が本当に正しいかどうかが気になってしまいます。

ここでも、「GDPが上がっていない」ことが前提とされているが、それは果たして本当かと疑いたくなります。また、GDPが上がっていないのはさも日本だけであって、それは日本固有の問題であるかのように主張されていますが、では他の国ではどうなのかとも疑いたくなります。

特に、アメリカと中国以外の国はどうなのかと(アメリカと中国のGDPがかなり伸びていることはよく知られていますから)。

ということで、次のことを確認してみます。

  1. 日本のGDPが上がっていないのは本当か?
  2. GDPが上がっていないのは日本だけなのか?

この2つです。ということで、確認していきましょう。しかし、この2つ目から説明した方が分かりやすいと思うので、まずは2つ目から考察して、その後1つ目を考察することにします。

GDPが上がっていないのは日本だけなのか?

まず、IMFによる統計データを見てみましょう。次の図1に、G20の1992年から2022年までのGDPの推移を示しました。要するに、主要国の直近30年のGDPの推移です(右側の凡例を見ていただければ、政治や経済のニュースなどで取り上げられることが多い国が多数を占めていることが分かると思います)。

図1. G20加盟国の過去30年に渡る名目GDPの推移

図1は、1992年から2022年までの名目GDPの推移です。これを見てみると、アメリカと中国が急激に成長していることが確認できます。

ここで確認したいことは、アメリカと中国以外の国のGDPなのですが、図1ではアメリカと中国以外の推移が分かりづらくなっています。なので、図2にアメリカと中国を除いたグラフを示します。

図2. G20加盟国の内、アメリカと中国を除いた各国の過去30年間に渡る名目GDPの推移

この図2を見るとまず目につくのは、日本のGDPの増減でしょう。

これを見ると、もしかしたら「あれっ、GDPってずっとそんなに変わってないんじゃなかったっけ?でも、2010年の辺りはかなりGDPが高まっているぞ。これはどういうことだ?」と疑問に感じるかもしれません。あるいは、「2022年はかなり落ち込んでいる。もっと頑張らないといけないんじゃないか?」と不安に駆られるかもしれません。

たしかにグラフの動きだけを見るなら、図2からは、1993年付近と2012年付近で数値が大きくなって、2022年は2021年と比べて、数値が下がっています。なので、このグラフを見たら、感情的にそのように反応したくなるというのは理解できます。

しかし少し思い出してみてください。2010年辺りは好景気だったでしょうか?リーマンショックの余波もあって、あまり好景気とは言えない状況だったのではないでしょうか。

では、先ほどの節で説明したような感じで、各企業がリストラを行って利益が増え、投資が増えたから、GDPが高まったのでしょうか?その場合、失業率(あるいは就業率)を調べてみるとはっきりしたことが言えるかもしれませんね。

それはそれで重要な議論でしょうが、その前に単位を見てください。図1にも図2にも、グラフの上の方に[百万US$]とあります。つまりこれらの数値はすべて、GDPをアメリカドルに換算したらこうなったという数値なのです。

ところで、GDPは本来どのような単位で表されるべきものでしょうか?「GDPは国内で生産された付加価値の合計額のことだ」と説明したことを思い出してください。

その考え方でいけば、国内で使われている通貨単位で測るのが適切であるはずです。もしも日本国内でドルが使われているのであれば、上記のGDP変動を見て一喜一憂するのは正しいでしょう。しかしご存知の通り、日本国内で使われている通貨は円であって、ドルではありません。

なので、図1、図2のいずれも、(GDPにも影響されますが同時に、)時期によって変動するドルと自国通貨のレート(日本のデータならドル円レート)に影響されているということになります。

ですから、上記のグラフから数値が上がった下がったと一喜一憂してみたところであまり意味は無いということが伺えます。あくまでも、GDPがその国の内部の経済を評価するために利用できるのは、自国通貨の単位で表されているときのみです。

※5. ですから、もしもドル換算したGDPを根拠に、国内の経済を語ろうとする政府機関があったら、その政府機関には十字砲火的な批判が加えられて然るべきでしょう。もちろん、非難することを推奨するつもりはありません。しかし国内の経済を議論しているのに、わざわざドル換算した(為替レートという国外の要因も含んだ)GDPを利用するのであれば、それ相応の理由があるはずです。

上記のグラフが国の内部状況を議論するときの根拠には使えない(というよりは使いづらい)のであれば、上記のGDPはどのように見ればよいのでしょうか。USドル換算したときの経済規模を表しているのですから、ざっくりとした経済活動の規模感(どれだけ付加価値が生まれているか、つまり買う/売るが成立しているか)を国同士で比較するときには利用できそうです。

今回は国同士のGDPの推移を比較したいわけですから、それなりに参考にできそうです。ということで改めて図2を見てみましょう。日本が約30年ほど前からずっと高い位置で大きく増減しているのに対して、他の国はたしかにGDPが徐々に上がってきていることが分かります。特にインドはその傾向が顕著に表れています。

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アメリカドルとのレートはこちらのページによれば、この30年では次の図3のように変化しています。ユーロの1998年以前のデータはなかったので、この図には掲載していません。

図3. 円/ドルレートおよびユーロ/ドルレートの1992年から2022年までの推移

ここで図3の、左側の軸に書かれている数値を見ていただくと、129や130、131といった普段聞き慣れた数値とはなっていないことに気づくと思います。これを見て驚く方もいらっしゃるでしょうから、図3について補足しておきます。

ニュースでよく使われている百何十円といった数値は「1ドルが何円になるか」を表しているのに対して、図3では「1円は何ドルになるか」を表しています。図3の逆数を取れば、普段よく耳にする数値になります。逆に、普段よく耳にする130みたいな数値の逆数を取ると、この図のような数値になります。

なので、(円ドルレートの)数値が高いほど円高を表していて、数値が低いほど円安を表しているということになります。同じGDPであれば、この(円ドルレートの)数値が低いほどドル換算でのGDPは低くなり、逆にこの数値が高いほどドル換算でのGDPは高くなります。

ユーロについても同様に、数値が高いほど(ドルに対して)ユーロ高、数値が低いほど(ドルに対して)ユーロ安を意味していますから、(ユーロ圏の国のGDPは)このレートの数値が高いほどドル換算したときのGDPが高く、レートの数値が低いほど(ドル換算したときの)GDPが低くなります。

さて、図3の見方もご理解いただけたところで、図2と図3を見比べてみましょう。すると、日本の場合はGDPの変動とレートの変動がよく似ていること分かります。つまり、図2の日本のドル建てGDPの変化は、ドル円レートの変化に起因するものだと考えられます。

ユーロドルのレートを見てみましょう。すると、2000年辺りから2008年までは上がり調子で、2008年から2015年は下がり調子、それ以降は比較的変動なしとなっていることが分かります。これとユーロ圏の国のGDP変化とを比較してみましょう。

G20加盟国の中でヨーロッパ圏であるのは、ドイツ、イギリス、フランス、イタリアの4カ国です。これらのGDPの変動を見てみると、2000年辺りから2008年にかけて、どの国もGDPが上昇していることが分かります。これはユーロドルレートの動き方と同じです。

2008年から2015年のGDP(ドル換算)は、ドイツはほぼ横ばいですが、イタリアとフランスはやや下がり調子です。イギリスは2008年から2009年にかけて急落して、その後2014年まで上がり調子だったことが分かります。その動き方だけを見れば、ドイツとイギリスはレートの動きと同じではないのに対して、イタリアとフランスはレートの動きに似ているということになりそうです。

2015年以降では、ドイツはやや上がり調子ですが、イギリス、フランス、イタリアは大体横ばいであることが分かります。ドイツ以外の3カ国は、この時期はレートの動きと似ていると言えそうです。

さて、このデータから何が言えるでしょうか。それは、アメリカ、中国、インド(そして、2015年以降のドイツ)以外の国に関しては、GDPが伸び悩んでいるのかもしれなさそうだと推測できます。

もちろん、そもそも1992年から1998年までのレートのデータがないので、あまり確定的なことは言えませんし、2020年2月にイギリスはEUを脱退していますから、すべての期間を同様に評価することはできないでしょう。

さらに、すでに指摘したとおり、図2にはユーロドルレートだけでなく、各国の(通貨で見たときの)GDPや、インフレ率も関係していますから、その意味でも確実なことは言えません(もう少し確実なことを言いたいのであれば、名目GDPではなく実質GDPを利用して、それを各国の流通通貨で表したグラフの形を比較すべきです。それは大変だったりお金がかかったりするので、ここではUSドル建ての名目GDPを使いました)。

しかし、おおよその傾向として、GDPが伸び悩んでいるのが日本だけとは言えなさそうな感じがします。

たとえGDPが伸び悩んでいるのが日本だけではないとしても、アメリカ、中国、インドという世界的に重要な国のGDPが伸びているのだから、それに追随できていないのは問題だという意見もあるでしょう。

それはたしかに問題かもしれません。しかし最終的にはそのような結論となるのだとしても、まだ議論が必要です。ですから、ここではひとまず「GDPが伸び悩んでいるのは日本だけなのか?」という問題に一つの結論を与えることとして、次の話題に移ることとしましょう。

データを見てみると、GDPが伸び悩んでいるのは日本だけではなく、ヨーロッパの国の内、ここで見た4カ国に限っては(2015年以降のドイツ以外は)、おそらくGDPがそんなに伸びていないと推察できるということになりました。しかし、軽く指摘したとおり、国際的に重要な国(アメリカ、中国、インド)の事情はそうではなさそうだということも忘れるべきではありません。

これがひとまずの結論です。

日本のGDPが上がっていないのは本当か?

ここまでの話を読んでいれば、ドル換算したGDP(上の項で示した図1や図2)を元に、日本のGDPが本当に上がっていないのかどうかを議論するのは無意味であることは明らかでしょう。

ということで、内閣府が発表している円を基準にした実質GDPの時系列データを見てみます(図1と図2では、名目GDPを利用していました)。それをグラフ化してみると図4のようになりました。

図4. 1994年から2022年までの日本のGDPの推移

これを見ると、日本のGDPが大きく落ち込んだのは2回しかないことが分かります。時期としては2007年度から2009年度にかけての期間と、2020年度という2つの期間です。

これらの時期には、経済に極めて大きな(負の)影響を及ぼす重大事件がありました。

2008年度にはリーマン・ブラザーズの破綻(に伴う経済金融危機、通称リーマンショック)が、2020年度にはコロナウイルスによるパンデミックが、それぞれありました。そのような特別なことが無い限りは、基本的にGDPは上がり調子であるように見えます。もちろん、この上がり幅が十分なものなのであるかどうかは議論が必要でしょう。

しかし、日本のGDPが上がっていないわけではないことが分かります。

ところで、2007年度から2008年度への下がり幅と、2019年度から2020年度への下がり幅を比較してみましょう。前者は大体20兆円、後者も大体20兆円であることが分かります。

つまり、コロナウイルスによるパンデミック騒動が日本の経済に与えた(1年目の)影響は、リーマンショックに匹敵するということになります(2008年度と2020年度とでは社会状況も産業構造もまったく違っているでしょうから、単純な比較はできないのでしょうが)。

リーマンショックが金融業界でも極めて大きな出来事だったと記憶されていることを考えると、それと同等の経済ダメージを与えたコロナウイルスの影響がどれほど凄まじいものだったかが分かりますね。

まぁ、リーマンショックの場合は投資が冷え込んだ結果であり、コロナウイルス騒動のときは消費が冷え込んだ結果であって、その理由はまったく違うのでしょうが。

※6. ちなみに、リーマンショックでGDPが下がった理由はおおよそ以下のとおりだと、僕は考えています。

※6. リーマンショックによって株価が急落すると、企業は資金を手に入れることが難しくなります。なぜなら、企業が資金を手に入れる手段として新株の発行して、株主に買ってもらうという方法があるのですが、その新株の価格には時価が参照されるからです(少し時価よりも安くなることもあるそうですが、「時価が参照点である」という点は変わりません)。

※6. つまり企業は、株価が高ければ高いほど少ない株数で大きな資金を手に入れられるということになります。

※6. しかし株価が下がると同じ資金を手に入れるためには、より多くの株を発行しなければならないことになります。それに、株を買ってくれる投資家の資産はやはり株でしょうから、株をそもそも買ってもらいづらくなっているでしょう。それにあまりに株を発行しすぎると株の価値が下がって、余計に資金調達が難しくなるかもしれません。

※6. リーマンショックによって株価が下がると、企業は経営(ここでは特に、お金のやりくり)が難しくなって、利益を出すことより損失を出さないことに集中することになります。その方法は投資を抑えたり、人をリストラしたりと、様々な方法が考えられます。人がリストラされれば、商品が買われづらくなってGDPが下がります。投資が抑えられると(投資を抑えるとはつまり、他の企業から商品を買わないということですから、)企業の利益が減って、GDPが下がります。結果として、図4のようにGDPが下がったと考えられそうです。

※6. つまりリーマンショックでは、人がお金を持たなくなることによってGDPが下がったと考えられます。それに対してコロナ騒動のときは、人がお金を持っているにも関わらず、(物理的に)モノやサービスを購入できない状態に置かれたために、企業の利益が下がって、GDPが下がったと考えられます(最終的には、リーマンショックのときとパンデミックのときの様子は似ていったのでしょうが、少なくとも最初の時点ではこのような違いがあったと考えられます)。

※6. このように考えると、リーマンショックとコロナ騒動のときとではかなり状況が違ったと予想できます。そのどちらの状況が発生しても、(この考察が正しいのなら、)経済にはダメージが加わることが分かります。いずれも20兆円という訳の分からない規模でGDPを下げたのですから、凄まじいものですよね。

ということで、日本のGDPが上がっていないのかについて、結論を与えておきましょう。日本のGDPの伸び具合が不十分である可能性はあるものの、しかし(大きな出来事が無い限りは、)日本のGDPは上がっていると言えます。

さて、「そもそも考えるべきことは何か?」で考察対象と挙げたのは次の4つでした。

  1. GDPは景気を示す指標である(GDPが高いと景気が良い)
  2. 日本の将来を議論するとき、GDPという数値を持ち出すことは正しい
  3. GDPが上がらないことは問題である
  4. GDPが上がると日本は良くなる(から、自分の生活が楽になる)

この3はたった今前提が崩れたので、考える意味がなくなりました。ということで、次から4を考えていきましょう(本来は、3を「GDPが世界的に重要な国と比較して十分な上がり方なのか?」などに変更して考察していくべきなのでしょうが、面倒なのでめちゃくちゃ長くなりそうだったので割愛します)。

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GDPが上がると日本は良くなるか?

さて、「日本が良くなる」という言葉を聞いて、どのような状況をイメージするでしょうか?

会社員の方であれば給料が上がることや、仕事がもっと楽になることなどを考えるでしょう。起業家の方なら、新しいことにチャレンジさせてくれる環境に変わること、あるいは起業が成功しやすくなることと定義するでしょう。就職を考えている学生の方なら、就職しやすくなることと考えるかもしれませんね。

しかしいずれにしても、「日本が良くなるか?」という問いで本当に考えているのは、自らの状況がどうなるかだと思います。つまり、日本が良くなるかどうかというよりも、自分の暮し向きや、自分の目標に取り組みやすくなるかに興味があるのだと思います。

そう考えてみると、「GDPが上がると日本は良くなるか?」という問いで本当に気にかけているのは自らの将来の暮らし向きなのではないかと思います。そして、GDPといった国家レベルでの指標を持ち出している以上、その背後にある考えは、「日本に住み続けるべきか、それとも海外移住をすべきか」というものだと思います。

(これはすべて僕の妄想でしかないので、問いの立て方自体が間違っている可能性もありますが、)ここでは問いを「日本以外に生活拠点を移すと生活はよくなるだろうか?」と変更して議論を進めていきます。

この問いに隠されている考えは、おそらく将来的に日本は衰退していくから、稼ぐのが難しくなるだろう、また、海外の方が稼ぐのが楽だろう(言い換えると、同じ額を稼ぐのであっても、日本よりも海外の方が稼ぎやすくなるだろう)という考えでしょう。

特に海外として考えているのがアメリカでしょう。世界一位の経済大国ですし、新しい技術をどんどんと生み出している国ですから。

そう考えた時、もちろんアメリカに移住した方が稼げるという人も存在すると思います。例えば数年前、Amazon社が優秀なプログラマに4000万円(だったかな?)という破格の給料を提示して雇っているというネットニュースを見たことがあります。

そのような破格の待遇は日本にいてはまず無いでしょうから、優秀なプログラマであれば、海外、特にアメリカに行った方が稼げるでしょう。そのような特異事例を除いたとしても、AI技術者やAI研究者といった人は、海外の方が待遇が良い可能性はあります。

しかし、アメリカでは日本ほど解雇規制が厳しくないという話を聞いたことがあります。ということは、ある日急に解雇を言い渡される可能性だって考えられます(これは完全に想像です。本当はそんなことはできないのかもしれません)。

同じプログラマという職業で、日本とアメリカを比較した場合、日本の方が安定して職に就けるものの、収入が低い(可能性が高い)のに対して、アメリカは安定してはいないかもしれないものの、収入が高い(可能性が高い)と言えるのかもしれません。

個人的に、日本は長年に渡って終身雇用という会社員が安定した状況にいられる体制が採られていたため、多くの人はアメリカのように急激に状況が変わり得る場所で働きたいとは考えないのではないだろうかと思っています。

もしそうなのであれば、海外に拠点を移すのが必ずしも正しいとは思いません。その意味で人それぞれということにはなりますが、一つ確実に言えることはあります。

それは、どの国であっても負の側面はあるということです。また、どんな仕事であっても負の側面があるということです。そのため、今の仕事を辞めて別の仕事に移ったからといって、また、日本国外に移住したからといって、必ずしも暮しが楽になるとは限りません。

日本国外の風土の方が合う人もいるでしょうから、そういう人は国外に移住した方が良いでしょう。

しかし最終的に重要なのは、自らの可能性を最大限に引き出してくれるような環境を見極めて、その環境に身を置くこと、(その一つの視点として、)自分がどのような環境は絶対に許容できないかを明確化して、その許容できない側面が無ければ、ある程度の負の側面は仕方がないと割り切ることなのではないでしょうか。

そのため、「日本が衰退していきそうだ。だから別の国に移住しよう」という考え方は少し安易すぎるかもしれません。アメリカの方が(経済的には)楽に暮らせるのであったとしても、しきたりや法律、慣習にまったく馴染めない可能性だってあります。

もちろん、人間というのは事前に予測するのが極めて困難な動物ですから、「最初は〇〇は絶対に許容できないと考えていたけど、意外と許容できるじゃないか」ということもあるかもしれません。しかし、だからといって考えなしに行動するのが正しいということにはならないでしょう。

「日本以外に生活拠点を移すと生活はよくなるだろうか?」に結論を与えると、今までの説明してきた通り、結局は「人による」ということになります。更に悪いことに、「私が日本国外に生活拠点を移したほうが良いか?」には、「実際に住んでみるしかない」と答えるしかありません。

しかし曖昧な回答だけではなく、次のような提案もしたいです。

それは、「日本が衰退していきそうだ」という考えに出会ったら、「では他の国ではどうなのだろうか」と調べてみるということです。もちろんこれで十分だとは言いませんが、しかしこれだけでも視野狭窄による選択ミスは防げるのではないでしょうか。

日本はいつ終わるか?

せっかくですから、GDPが上がると日本は良くなるかについても、直接的に答えることとします。

これについては、「GDPの上がった原因による」となるでしょう。何度も話に出てきている通り、リストラによってGDPが上がったのであれば、個人視点で見ると生活が難しくなる人が増えると考えられます。

しかし、新製品を開発して、それが大ヒットしたというような理由によってGDPが上がったのであれば、個人視点で見ても生活が良くなる人が増えそうです。

さらに、GDPが上がった理由がそのように「買う・売る」の動機が増えたからなのであれば、それはつまり日本でのビジネスチャンスが増えたことを意味します。すると、国内外から優秀な人が集まりやすくなって、日本のGDPがさらに高まる可能性があります。

しかし、GDPが上がってもそうならない可能性もあります。新商品が大ヒットしたとしても給料が高まるとは限りませんし、他国の方がより大きなビジネスチャンスを作ったのであれば、ほとんどの人はその他国に行くでしょう。

そのため、GDPが上がったとしても、日本が良くなる前提の一つが満たされただけだと言えるでしょう。つまり、GDPが上がった原因によっては、日本が良くなりやすくなるかもしれないし、そうはならないかもしれないとなります。

あくまでも、GDPは日本の良くなりやすさに影響するだけです。このように説明すると「GDPがずっと上がっているにも関わらず、日本での暮らしが良くならない。ということは、日本はもう終わりではないか」と考える方もいらっしゃるでしょう。

また、現状の日本の状況がどのようなものなのか知りたい方もいらっしゃるでしょう。

ということで、さらに日本が終わるときはどんなときかを考えてみます。

結論から言うと、僕は「問題意識を提案できる人が存在しなくなったとき」だと考えています。そこからさらに、「日本の教育が無くなったとき」だとも考えています。それらが起こると日本はさすがにやっていけなくなってしまうだろうと考えています。

問題意識の提案ができなくなるとはつまり、日本の十八番<おはこ>である改善ができなくなるということを意味します。

Nintendo Switchなどは、「ゲームかテレビかの二択を家族で取り合わなければならないのをなんとかしたい」という問題意識によって生まれた大ヒット商品です。

スーパーマーケット業界で日本一の売上を誇るイオンでは、問題意識を極めて大事にしていたことが分かります。

日本国外でも、例えばNetflixは「ビデオテープを店に行って貸出・返却するのが面倒だ。それをなんとかしたい」という問題意識によって生まれたサービスですし、Googleは「情報検索をしてみても、技術がなければ望む情報にアクセスできない。技術がなくても望む情報を得られるようにしたい」という問題意識によって生まれたサービスです。

Appleは「人々の誰もがコンピュータを持てるようにしたい」という問題意識の元に動いていた(現在はどうか知りませんが)からこそ、iPhoneを発明するに至ったわけです。

問題意識とは、人が意識的にか無意識的にか感じている「こういうものがあったらいいのに」に他なりません。問題意識に基づかない商品と、問題式に基づいた商品であれば、後者の方が売れやすいでしょう。

もちろん、成功の理由を「問題意識があった」という一点に求めるつもりはありません。しかし、問題意識というのは重要な要素の一つだと思います。

例えばスケートボードにモーターをつけて、自動で走れるようにしたとしましょう。それを見て面白いと感じる人は多くいるでしょうが、自分でも使ってみたいと感じる人はどのくらいいるでしょうか?買ってくれる人はどのくらいいるでしょうか?

そもそもスケートボードを使う人がどれくらい存在しているでしょうか?さらにその中で、スケートボードが自動で走ってくれたらいいのにと感じている人はどのくらいでしょうか?

もちろん、問題意識なしで作った商品が大ヒット商品となる可能性はあります。FacebookやChatGPT、画像の生成AIなどはどちらかと言えば、問題意識を元に作ったというよりも、作ったものが偶然ヒットしたというパターンでしょう。

ほとんどのゲームも問題意識なしで作ったものだと思います。例えば東方シリーズは「自分の作った曲を聞いてほしい」とZUNさんが作ったゲームですが、それは問題意識というよりは、どちらかというと作ったものが偶然ヒットしたというパターンに見えます(もしかしたらZUNさんの中には解決したい問題意識があったのかもしれませんが、傍目には)。

今まではIT企業がほとんどでしたから、それ以外の例も見てみます。例えばフッ化水素を作る技術は(正確にはフッ化水素を作った後、純度を高めた上で保存するというのが難しいということらしいです[要出典])日本の企業が世界一位なのだそうです。

それはつまり、「フッ化水素を作る」という目的を達成するときに、「フッ化水素の純度を高めるのが難しいけど、それを解決したい」とか「高純度のフッ化水素を保存するのが難しいけど、それを解決したい」といった問題意識があったことだと思います。

大学で研究を行ったことのある方なら分かるでしょうが、それはつまり研究の目的であり、研究背景のようなものです。

「”それ”が問題である」と認識し、問題提起できるためには、ある程度勉強ができる必要があります。そのためには、やはり公教育は必須でしょう(もちろん独学でどうにかできる天才も稀に存在しますが、多くの人はそうではありません)。

もちろん、いじめ問題や教職員の減少、無駄に厳しい校則、学力絶対主義といったような問題があることは確かです。それらを無視してもよいとは思いません。

それらは学校の現実に対する指摘ですが、”学校制度”というある種の理念への指摘もあります。

例えば『日本のメリトクラシー 増補版: 構造と心性』といったような本では、学校とは結局のところ、子どもたちに自分がどの程度の実力を持っているかを認識させ、社会に人的資源を配分しやすくするための仕組みでしかないのではないかと指摘しています(僕が読み間違えていなければですが)。

他にも『脱学校の社会』という本では、学校があると人の意識が「学びたい」ではなく「学校に行かなければならない」になり、(本来は学校に通うことは手段でしかなく、最終目標は教養を身に付けたり、勉強を出来るようになったりすることであるはずなのに、)学校に通うこと、(本人の実力がどうあれ、)「学校を卒業した」という資格を得ること自体が目的になってしまい、教養の質が落ちてしまうのではないかと指摘しています。

どれも正しい指摘だと思います。実際問題として、いじめ問題、教職員の減少、厳しい校則、学力絶対主義といったものは(もしかしたら他国でもそうなのかもしれませんが、少なくとも日本国内では)よく議論されている問題ですし、無くすべきもの・改善すべきものだと思います。

理念に対する「学校は人を納得させながら、階級を再生産するシステムにすぎない」、「手段と目的が入れ替わってしまう」という指摘についても、どれだけやる気があろうとも、学力が高くなければ偏差値の高い高校や大学には入れないこと、また、テストにだけ受かれば(その後すぐに忘れてしまったとしても、)それでいいという考え方を聞くことから明らかでしょう。

以上のように改善の余地は大量にありますし、「学校」が現在のような姿である必要ももしかしたら無いのかもしれません。しかし同時に、現行の学校教育、学校制度が一定以上の効果を発揮していることもまた事実です。例えばこちらの研究によると、質の高い持続的な教育により、子供の認知が向上するといった結果が出ています(しかしこれはあくまでも海外の研究なので、日本にも当てはまるのかどうかは分かりませんが)。

学校教育を疑問視する声が多く上がっているように感じますが、しかしそのような結果がある以上、学校教育の正の側面も忘れるべきではありません。

グローバル化した昨今では、日本は外貨なしに国家を成立させることがもはや不可能になっていますから、どうにかして外貨を稼ぐ必要があります。

iPhoneを使っている人は多いでしょうし、もはや必需品となったPCを動かしているのはMicrosoftのWindowsです。ガソリン(石油・化石燃料)だって外貨によって買う必要があります。

それだけではありません。豚や牛の餌、つまりトウモロコシなどの穀物を輸入するためにはアメリカドルが必要です。動物の餌だけではなく、野菜や肉類といった食料品を手に入れるにも、やはり海外に頼る必要があります。

では外貨の獲得を資源の輸出に頼ることができない日本が頼れるものは何でしょうか?人以外に無いでしょう。しかし安い人件費という意味での”人”は中国やインドには勝てません。中国はかつて広い国土と膨大な人口を中国の武器と考えて、自国を世界の工場と位置づけ、経済発展を遂げました。ならば日本の武器は何でしょう?

一つの考えは、「ある程度の教養を持った”人”」というものでしょう。

そして、かつてTOYOTAが世界を席巻したときに行っていたKAIZEN以外に無いでしょう。しかし改善できるためには、「”これ”は改善すべきである」と見抜く力が必要です。実際に改善できるだけの知性も必要でしょう。

そこで必要とされるのは数学かもしれませんし、物理学かもしれません。あるいはソフトウェア系の会社であれば、情報科学が必要とされるかもしれません。

しかしいずれにしても、教育が存在しなければ、大半の人が身につけることができないものであることは間違いありません。

幸いにも、(前述の問題を抱えてはいるものの、)まだ日本の公教育は機能しています。ですから、まだしばらく、日本の強みである「(そこまで極端に頭が良いわけではないものの、)ある程度は頭の良い人が大量に存在する」という特徴は残ると思います。

ですから、まだ日本は終わってないのではないのではないかなと思います。もちろん、今舵取りを間違えれば転落の一途をたどることになる可能性もあることは忘れてはなりません(そのため、個人の生活が今よりも苦しくなる可能性は否定できません)。

しかし、資源が無い上に、人口が1.3億人程であるにも関わらず、また、その内の労働人口がかなり減ってきているにも関わらず、未だにGDPが世界第3位の経済大国であるというのは立派なものなのではないかと思います。

今と未来を生きる僕たちは、今を批判し、されど必要以上に悲観すること無く、ひたすらに自らの価値を高めていれば良いのではないかと思います。

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まとめ

結局、GDPと景気を解説する記事になってしまったような気がします。それぞれをまとめると、GDPは国内で生産された付加価値の合計額で、モノやサービスが作られるだけでなく、それが買われて初めて付加価値となるということでした。

そして景気と給料の間には、関係はありますが、しかし必ずしも景気が良いからといって給料が高いとは限りませんし、また逆に給料が高いからといって景気が良いとも限らないということが分かりました。

これらの確認により、GDPが高いときには景気が良くなる傾向にはありそうでしたが、こちらも必ずしもそうではないということも分かりました。特にGDPと失業率(あるいは、景気と失業率)の間には何かしらの関係があってもおかしくないということも分かりました。

それらの概念を確認した後で、日本のデータを見ながら現状を一つ一つ確認していきました。GDPが伸び悩んでいるのは日本に限らず、ヨーロッパもそうらしいことが分かりました(確認したのは4カ国でしたが)。

また、ドル換算のGDPで国内のことを議論することに意味はないことも説明しました。ドル換算していない(円建ての)日本のGDPのデータによれば、どうやらGDPは上がっていないわけではなさそうだと分かりました。

そして最後に重要なこととして、結局の所、自分が重要だと感じることを実現してくれる環境に暮らすことが重要なのではないだろうかという話もしました。またそこから、結局は暮しが「自分にとって」どうかが重要なのであって、そのときにGDPや景気といった客観的な評価はあまり関係ないのではないだろうかとも考えられそうですね。

補足事項として、日本はまだまだ終わってないという話もしました。その中で、公教育が機能しなくなって、国民の認知力や学力を高められなくなったら流石に終わりだろうという仮設も提示しました。

記事が長くなってしまったので、まとめも長いですね。基礎知識の確認からやってるとこうなってしまいました。まぁでも、一つ一つの話は分かりやすかったのではないかと思います。

P.S. 100記事目というキリの良い記事で何を書こうかと悩んでいたせいで、更新がストップしていました。特に何も考えずにいつも通り投稿すればいいのでしょうが、なんとなくそういう気分にはなれなくて。まぁ、こういうことはこれからもあるでしょうが、気長にお付き合いくださいませ〜。

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